わたしの祖父

この記事は読むと不快な気持ちになったり傷ついたりするかもしれないので気をつけて。私の身近な人の人種差別的な言動について私が吐き出したいことを書いています。

 

 

祖父と暮らすようになったときの話。

 

テレビで在留外国人が不法滞在で捕まる映像が流れてて、高齢の祖父母が「ガイジン」と嫌悪や嘲笑をあらわにしているところを見るのがとてもつらい。

技能実習生の労働環境や入管の人権侵害、警察の横暴さについて、私はネットニュースやSNSで少しは知ることができたけど、祖父母の情報源は偏ったテレビ番組しかない。それか読みたいところしか読まない新聞か、ものすごくたまにしかつけないラジオ。

祖父はiPadを持っているけれど、積極的にインターネットを使おうとはしない。なぜなら「怖い」と言う。「無料で見れるのは詐欺かもしれない」と思っている。通信料や広告収入、フィルタリングについて説明されても、「よくわからない」と遠ざけてしまう。

私たちも、ネットリテラシーについて細かくレクチャーする時間も気力もない。そもそも生まれたときからインターネットがあった私たちにとっては「なんとなく」「感覚で」「見ればわかる」「ググればわかる」ので、インターネットのない世界で生きている人の「怖さ」に寄り添いながら丁寧に操作方法や取捨選択を言語化することは「めんどうくさい」のだ。

他人ではなく身内ならなおさら、何事にも精力的だった頃を知っているので内に閉じこもる祖父を見ると疲れてしまう。もちろん、それが祖父なりの「世界の守り方」だもわかっていても。

 

祖父は戦中生まれで、近所のお兄ちゃんの背中におぶわれながら大空襲の日に山向こうの空が真っ赤に染まっていたのを見た記憶があるくらい昔の人(私たちからすればそれくらい「昔」だが、私より若い子どもたちからすればそれはさらに「昔」になる)なのだが、ウクライナ侵攻のニュースに対してもわりと冷たい。もちろんプーチンのことは嫌いみたいだ。けれども「国土は広いが資源もない、冬は寒い。ロシアは所詮そういう土地なんだから、ロシア人は侵略しか考えてない。日本人とは考えが違う、話が通じない」というようなことをものすごく嫌そうな顔をして語る。私はこの発言にさほど驚かなかった。

なぜって、祖父はテレビに映るK-POPアイドルを見て「日本のカネを取りに来やがって、韓国人は気持ち悪い」と言ったり、韓国大統領選挙や慰安婦問題のニュースを見て「いちいちうるさい文句をつけてくる国だ」と吐き捨てるように言ったりする人だから。韓国語を勉強している人の前で祖父がわざわざ「韓国は嫌いだ」と言うのを初めて聞いたとき、私はとても驚いたし傷ついた。(いつも私はK-POPに励まされているし、いつか韓国を旅行してみたいと思っている)

 

幼い頃には、終戦当時の雰囲気や戦後の暮らしに苦労したエピソードをいくつか話してもらったことがあった。祖父は自他に厳しく秩序や学問を大切にする、私の知る限りでは親戚中ではほとんどいちばんくらい「まともな大人」「知識人」だった。

幼少期に戦争を体験した祖父だからこそきっと反戦や世界平和の思想を持っているのだろうと私は信じていたし、大日本帝国が韓国をはじめアジアの国々に対して行った侵略についても当然反省的な姿勢だと思い込んでいた。そして権力や国家とその国で生きる個人は同じではないということもきっと弁えている人だと思っていたし、人種や国籍を理由に誰かを憎んだりする人ではないとも信じていて、だからこそ尊敬していた。

なのに、今の祖父はそれとは真逆のところにいる。

祖父は同様にトランプのことも習近平のことも嫌いだが、アメリカや中国という国家権力だけでなく"アメリカ人"や"中国人"も嫌いだし、"アメリカの文化"や"中国の文化"もひっくるめて嫌いなようである。

私が中国籍の人と仲良くしていると「共産党のスパイかもしれないから、深入りするな」と真面目にアドバイスをくれる。

どうしてこうなってしまったのだろう。私もいずれ、こうなるのだろうか?

 

ロシアでは、テレビ以外にも情報源のある人と、テレビだけを見ている人とで、侵攻への捉え方が違うらしい。つまり傾向としてみれば、インターネットをリテラシーをもって使えるか、そうでないかで自国の政治情勢に対する意見が食い違うことが起こっているのかもしれない。いや、そんな簡単なことじゃない。なんでこんなことになった?って気持ち。

 

わかりやすく言えば、「話が通じない」のだ。話が通じないことが続くと、「通じさせたい」「伝えたい」「わかりたい」と思っている限り、心が疲弊する。わかち合いたいと願っているのに、わかち合うどころか傷ついていくのだ。そして私たちの会話は減り、お互いが、あるいはどちらかが口を閉ざし、聞かなかったふりをする。その頃には「わかり合いたい」という気持ちもないのだろう。

それでもせめてもの抵抗として、食卓にキムチを出してみる。祖父は「朝鮮漬けだ、懐かしいな」と言ってパクパク食べている。私は、孫がレズビアンかもしれないのだと知ったら祖父はどんな反応をするだろうと想像して、やめる。やめておく。かなしいきもちになる。祖父はずっと選挙では、教会や連盟に入っている自民党の議員に投票している。この家を出たい、と漠然と思う。

 

 

おすすめBL漫画 2022前半

読んでよかったBL漫画。いきます。出版年関係なく2022前半に私が読んだ作品です。

山田ユギ『一生続けられない仕事』

新人弁護士・早坂義人は修習生時代に指導を受けた先輩弁護士・三上陽彦に憧れて、彼の事務所に入所した。頻繁に事務所に出入りする三上の同期弁護士・片山柾にイジられながらも日々忙しく仕事に励んでいる。しかし、三上と片山の間にある友情以上の「何か」に気がついてからはなぜか冷静ではいられなくて…!?

お仕事BL漫画。ストーリーがしっかりしていて、良い。

個人的には、森×三上のカップルが好きです。年下攻め×美人受けってええなあ。

 

のばらあいこ『秋山くん』

ずっと好きだったんです。
助けてもらったあの日から――。
不良グループの秋山君に恋した雑草系男子・柴。
思いあまって往来で告白すると、そこには秋山の仲間もいて…!
その流れで拉致され、柴も秋山も思いもよらぬスゴイ展開に!?
おふざけで始まったカンケイだけれど、次第に互いの心が通じ合い――。

エロくて最高の漫画だ。平凡攻め×美人受けってええなあ。

エロに執念があってよかったです。

 

 

倉橋トモ『いつか恋になるまで』

兄弟同然に育った千秋と和馬がそれを覚えたのは、中学3年のこと。
自慰に耽る千秋に気づいた和馬がもちかけたのが最初で、遊びの延長みたいなものだった。少なくとも和馬にとっては。
だから和馬に彼女ができた時も、何でもない顔をした。けれど無理をするほど気持ちのセーブは難しくなって、寂しそうな顔をする和馬に、余計に心はかき乱される。
そうして千秋は、ついに―――。

幼馴染っていいなあ~。友だちからの恋人関係ってあるけど、同性間の親密さが「恋愛」「パートナー」になる過程ってなんかしんみりしちゃう。①なんでもかんでも「恋愛」と名付けないでほしい ②でもまだ同性恋愛の作品はもっと増えてほしい ③それはそれとしてやっぱ「名づけられない状態」のクィアな関係が好きだ… 複雑です。

何回も思うが、友情→恋愛はステップアップでも成長でもなんでもないのに「そう」描かれがちで、親密な関係として周囲に認められようとすると詳しく説明しようとしても「恋人」にされるのまじで置いてけぼり感ぱない。

わんこ攻め×美人受けってええなあ。

 

 

しっけ『セックスドロップ』

 

しっけ先生のBLが私は好きなのだ。

なぜなら、セクシュアルマイノリティのキャラクターの描き方が上手いのだ。

恋愛感情とセックスだけでない、ゲイとしての悩み、偏見への不安、つまりアイデンティティがそこにある気がする。なんだろー、プライドが感じられるんだよね。実際のしっけ先生のスタンスはよく知らないですが。

ゲイであること、クィアを楽しんで生きてるかんじのキャラ描写がサイコー。

 

昨今は、LGBTQ+の周知の進みもあってか、「前向きで積極的なカミングアウトと、周囲の肯定的な反応」がBLでも増えてると感じるんだけど、この『セックスドロップ』は意外にも「カミングアウトしない」選択を描く作品なんだよね。

オープンゲイの黄海と、隠れゲイの黒木。同じゲイでも、こんなに違うんだよ~、いろんなゲイがいるんだっていうのをただそのまま書いてる。自分勝手だった黄海が黒木の気持ちを尊重して「隠れて付き合う」ことに付き合う変化もなんかいい。

すごいのは、「カミングアウト(したくても)できない」じゃなくて「カミングアウト(今はしたくないから)しない」なところ。些細に見えるんだけど、大きな違い。わざわざ言わないけど、ゲイってアイデンティティはしっかりある黒木。

「カムしない選択」を悲観的でもなく否定的でもなく、いくつかあるうちのひとつの選択として書いているのって、すごいよね? 

もちろん、カミングアウトしてオープンに戦ってきた過去の/今のクィアたちがいるからこそ、今があるわけで。でも、カミングアウトって、セクマイ全員が経験しなくちゃならないものってわけでもない。言いたくない人にまで言わなくていい。カミングアウトはゴールでもなんでもない。

そしてBLではカミングアウトは同性愛嫌悪的描写と共にあると思ってて、たとえば男が好きってカムして親に泣かれたり、ホモって呼ばれて孤立したり(最悪すぎて胸がくるしー)

『不屈のゾノ』も『いちか、ばちか』も読んだけど、しっけ先生のBLはノリで言うと「あ、俺ゲイだから」「そっかー」「そういや私はビアンです」「まじかーおめでとー」くらいの周囲の反応がなんかいいなーと思う。ふつーでいい。百合も描いてくれんかな

 

 

ダヨオ『肉食組曲

社会は何人から社会になる? 人が3人集まれば社会になるといいます。

じゃあ男が3人集まればホモソーシャル……になるとは限らないよね~

アンチが読んだら(アンチが読んだら!?)この『肉食組曲』って外見男なだけで中身腐女子じゃんw女の願望じゃんwwただの女子会wwwとか言いそうなんだけど、それはあまりにも私たちが社会の中で「大人の男同士がケアし合う場面」を見てないからだと思う。

なんかなー、たとえフィクションであっても「対話」や「あいづち」がある男性の描写って必要だと思うんよね。マウント合戦じゃない、労りのあるコミュニケーションをする男たち。恋バナでもいい、料理でもいい、同人誌オタクでもいい。友だちの失敗を笑わない、家父長制的でない、性差別的でない男性像をメディアでもっと見かけるべきなんだよ。男はつらいよとかノットオールメンとか言ってるよりも、自分も周りもつらくないモデル像をもっと作らなきゃ。本当は男性自身がしんどさや弱さを引き受けて作っていかなきゃなんだと思うけど……BLってある意味、アップデートされる「男らしさ」があるので、参考になりそう。ダヨオ先生の作品は「男らしくない男らしさ」の提案がうまいよな、と思います。

 

またおもしろいBLを読んだらブログに来ますねー。

 

絶対に読んでほしいBL小説

夏だー。

時が経つのは早すぎる。

こうしてね、働いたりね、疲れて寝たりね、なんやかんやしてるうちにいつか死ぬんだろうなと思うと鬱になります。

そんなときこそBLを読むのだ。

 

菅野彰「毎日晴天!」シリーズ

大見出しにしちゃった。

 

東京の下町、竜頭町にある帯刀家。ある夏の日、長女・志麻の結婚相手として、大河の高校時代の親友・秀が訪ねてくる。突然知らされたことに大反対する兄弟たち。しかし、志麻が旅行先で失踪してしまったことで、なしくずしに兄弟たちと秀とその養子・勇太との奇妙な同居生活が始まる。

 

このシリーズはもうね……言葉では言い尽くせない。

「子どもの貧困」という問題があるけれど、ある意味で、この毎日晴天!シリーズは「子どもの貧困」が底にある小説だと思う。

親との死別、あるいは、ネグレクト。貧困。格差。DV。アル中。

経済的にも精神的にも環境的にも「貧困」に置かれた子どもたちがどう生き抜くか、どうやって生きるしかなかったか、というシビアなテーマの中に、それでも「どんな子どもも幸せになっていい、きみは幸せになれる」というメッセージを感じるの。

 

父、母、子どもが何人か。余裕があればペットを迎える。

現代社会はそんな核家族が「ふつう」の家族だ。でも、そんな「かんぺきな」家族ばかりではない。片親家庭や血の繋がらない家族。同性カップル。単身世帯。いろんな形があるのだけど、わたしたちの頭の中には「ふつうはこうあるべき」という規範が刷り込まれている。

 

 帯刀家はどうだろう。男四人兄弟に犬一匹、それに押しかけ夫とその養子の大家族。

 みんな「本当の親」を、何らかの事情でなくしている。「親」のいない子どもたち。

「ふつう」じゃないよね。めっちゃ「変な」家族なの。

帯刀家の兄弟は、互いが「家族」を守ろうとして、自分を犠牲にしていたり、相手を傷つけていたりする。毎日晴天!は、「家族の絆」ではなくドメスティックな「家族のグロさ」を書いているクィア小説でもあるのだ。

「親」がいなくても生き抜くために、「兄」は「親」を、「弟」は「子」の役割にがんじがらめになっていく。あるいは、「亭主関白な父親的兄」「家事の得意な優しい母親的存在」「いつまでも甘えん坊な末っ子」になる。「変な家族」が「ふつうの家族」になろうとしているみたいに。

その違和感は、シリーズ前半の勇太の違和感やイラつきが代弁してくれているのだけど、ティーンのくせに妙に達観してしまっている勇太が帯刀家の末っ子・真弓に振り回されていくところがめちゃくちゃ……とにかくすごいんよね。

ヒルで賢くてちょっと影のある勇太は、大人組よりも大人ってくらいキレッキレに突っ込んでくる一方で、ネグレクトの過去がある。薬物に手を出したり未成年飲酒したり売春に関わってたり、もうこれでもかってくらい「社会から見捨てられた子ども」だった。手を差し伸べてくれた秀のおかげでまともな陽の当たる社会に出てこられたという過去がある。

ゆえに、真弓と恋愛関係になっても、真弓との「格差」を気にして逃げてしまったり、不安になってDVをしたりする。そしてまたDVをしたことを後悔したり……するんだけど、この「生い立ち」がなせる価値観の違いが切実すぎて……。

もはや『パラサイト』の半地下家族と豪邸に住む家族みたいな「社会的弱者/強者」「貧乏/金持ち」みたいなわかりやすい格差じゃないのだ。

帯刀家の兄弟も、秀も、勇太も、みんな社会の中では「弱者」。踏みつけられてきた側の人間なんだけど、その「弱者」の中にも階層ができてしまってて、その見えない分断をぶち壊して連帯するのってめちゃくちゃ痛みを伴うよね、っていうことが10年以上前に書かれているんですよ。それもBL小説というジャンルで。

卑屈でわがままな甘えん坊の真弓(傷はあるけど薬もあった子ども)が、勇太の「ひたすら痛めつけられて生きてきた子どもの心」を回復することに一生懸命になるところが好きです。自分はマイノリティだ(自分は弱い、もっと尊重されたい、生きやすくなりたい)と思って生きてきたときに、自分よりももっとマイノリティで息苦しそうな相手と出会ったときに、特権を振りかざすのか、特権を省みるのか。

 

最終的に、「父親的兄貴」「母かつ妻的夫」とかでもなく、大河は大河、秀は秀、真弓は真弓、勇太は勇太……と役割を外していって、「家族」から「個人」になっていくところが好きだなと思います。

 

今でこそ再評価されてほしい作品です。

若さの搾取と消費的な高校生BLを実写化するくらいなら、気鋭の俳優を集めて「毎日晴天!」をドカンとゴールデンタイムに2クール使って放送する方がいいですよ。

こういうBLこそ実写化してほしい。

 

 

 

 

Kindle Unlimitedで読めるおすすめBL小説

仕事が忙しい。久しぶりの更新です。

たとえ仕事が終わらなくてもBLのために帰ってくる。明日の自分に期待。

 

Kindle Unlimitedにまた入っていました(1ヶ月分だけ!)

読んで面白かったBL作品をおすすめします!

ネタバレ注意。

 

ひとつめ。

駆け出しの映画監督・太一は絶賛、スランプ中。気持ちを切り替えるため、2ヶ月の休暇を作り田舎に帰ったまでは良かったが、とあることに気を取られた拍子に、春原という男にぶつかってしまう。荒々しい言動と強面の割に、根は真面目で情に厚い質らしい春原と、彼の友人である無表情な男・環に付き添い病院に行くと、春原は全治2ヶ月と診断される。クラブのセキュリティとして働く春原が「仕事に穴を開ける訳にはいかない」と悩む姿を見て、太一は春原の仕事を2ヶ月の間、引き継ぐことを申し出る。学生時代からずっと映画漬けだった太一にとって、クラブのセキュリティという仕事は新鮮だった。なかでも、クラブの常連でもある春原の友人、環の存在が妙に気になる。第一印象は最悪で、これ以上関わり合いたくないと思うのに、環の方は太一に興味があるようで……。

 

ノンケ×ゲイ。田舎の「イエ」からの脱出BLでした。

封建的な田舎からの脱出ものって百合にも多いと思う。家父長制で苦しむ女がいれば、苦しみの質は違えどそこで息がしにくい男もいるんだから、BLだってクソ田舎から脱出してほしいよね。都会に住んで成功した攻めがスランプに陥って実家に帰ってきたら、子供の頃ならたぶん仲良くもならなかったような、ちょっと変わったやつと友だちになって。毎晩お酒を飲んでふらふらしてるプー太郎なのに、こいつと一緒にいるのは居心地がいい。とか思ってたら相手は地元の名家のお坊ちゃまで、ゲイで、その性的指向のせいで半ば勘当されかけてて、人生諦めてて。ほっとけね〜!ってなるのがいい。

お互いを好き合って気持ちも確認するけど、二人の状況はほんとに「不自由」。親からの圧力や不安定な仕事のこともあって、付き合いましたハイ幸せになりますってゆうのはありえないとわかってる二人の冷静さに胸が痛む。むしろ交際をカミングアウトすれば確実に引き裂かれる、そんな酷い話ある!?😭 それでも一緒にいるためにはどうするか…。何ができるか。

ここで二人がともに「恋愛感情に任せた駆け落ち」ではなく「個々の自立」を選択するところがめちゃくちゃいいんよな。良いパートナー関係を続けるってきっとそういうことだよね。

太一は映画監督、環はデザイナーとして、きちんと仕事をして生活を整えて。それはいいことなのに、でもどうしても思ってしまう。誰にも何も言わせない、邪魔されても蹴散らせるくらい強くならないと、太一と環が一緒にいられないのはなぜ?どうしてクィアの人物は(不本意に)(偏見や差別に晒されることで)強くならなくちゃならないのか…

この作品のいいところは脱出とその戦い方もだけど、カミングアウトに関する表現がよかった。環に「自分はゲイだ」と打ち明けられた春原の反応エピソードもよかったし、太一の受け止め方も素敵だった。無理解な家族に傷ついたかもしれないけど、良い仲間がいてよかったね。

環と対象をなすキャラクターがいます。かつてはクリームパンを分け合うほど仲のよかった、環のお兄さん。親に恋人結婚を反対されたことをきっかけに、環に対しても「親の言うとおりにしろ」「諦めてうちの会社で働け」と冷たい態度。それにも理由があるんだけど、人が傷ついた事実の前にはどんな理由も謝罪にはならない。環はお兄さんと和解して太一と都会に脱出するけど、お兄さんは田舎の権力者の長男という檻の中に囚われたまま。でも内部から壊していく戦い方もあるからね。

好きなシーン。環の髪の色を太一が褒めるシーン。今は淡く染めてるけど、実家に帰って会社で働くなら髪を黒くしなきゃと諦めムードな環に「そのままの環が好きだ」「似合ってるよ」と伝えてくれる太一。そうだよね。自分が好きな自分でいたいよね。

こういう作品を読むとBLって恋愛だけを描いてるわけではないというか、BLがフェミニズムならBLキャラクターも「男らしさ」の境界をどんどん撹乱してるのが好きなんだわたしは!クィアであれ。恋愛要素も萌えました。

 

 

ふたつめ。

年下攻め〜!!!!!大好き。

これも都会で失敗して田舎に帰ってきた男が主人公です。久々の実家でくつろいでいると、へんなTシャツを着たイケメンが現れて〜!?!?しかも別れた数年前と変わらず、今でも大好きと告白してきて!?

や〜〜〜。もうよすぎる。

幼馴染+年下攻め+美人受けってなんでこんなに良いんだろう。

受けは、「恋とかよくわからない冷めてるタイプのキャラクターを装っているが、実は年下の男の好意に甘えて立場を濁す都合のいいときだけ年上ムーブ全開あざとさMAX無責任な初心お兄さん」でそこもよかった。

 

みっつめ。

車会社のエリート×パン屋の青年。

パンが美味そうすぎ。パンが食べたくなる。

パン屋さんのお仕事って大変なんだね。

パンを通じた二人の距離の縮め方がすごくかわいかった!特に受けが積極的で、攻めと仲良くなるためにあれやこれやと考えてるのが嬉しかった。男同士だしどうせ…と卑屈にならず、自分の得意なパンでアピールしちゃおう!という前向きさが元気をもらえた。最高。

またすれ違いの末に手紙で告白!からの同棲の流れも穏やかでよかったな。攻めは名門大学卒のエリートなんだけど、受けはおそらく高卒の地元のパン屋さん。学歴の差というか、職業格差というか、本来なら交わらなかった場所の人間たちが隔たりを飛び越えて手を取り合えるんだって希望を持たせてくれるところがフィクションの力であり作家さんの力。

 

 

 

よっつめ!

■褐色わんこダイバー×傷ついた美形エリート■
大手広告代理店に勤める広瀬透(27)は、性被害の傷を癒やすため沖縄の離島へとやってきた。
そこで出会ったダイビングインストラクターの峰太郎(25)や、騒がしいダイバーたち、ちょっと不思議な島民との何気ないふれあい、何より透明度の高い海に癒やされ、自分の素顔を取り戻していく。
天真爛漫で海をこよなく愛する太郎と少しずつ惹かれ合い……

 

ストーリーが良かった!

フィクションで描かれる沖縄は(もしくは私含め本土の人間が理想化している沖縄は)南の海、ゆったり流れる時間、癒しの土地……そんなところでしょうか。しかし現実には、琉球は侵害され搾取され、今もなお基地負担や自然破壊といった形で沖縄で被害が続いています。

沖縄を都会に対する「癒しの象徴」としてのみ消費することは、適切な態度であろうか?というのが私の意見です(もちろん反語ですよ)

性暴力を受けた男性が主人公のこの作品は「癒し」よりも「抵抗」を描いていた点がよかったです。初めはもちろん、海やダイビングやインストラクターの峰太郎のおかげで傷も塞がっていくかのように思われますが、性暴力を受けた心の傷は塞がりきることはありません。些細なきっかけでぱっくりと割れ、血が噴き出します。

なんやかんやあり峰太郎と体を重ね、恐怖も和らぐのですが……自分を傷つけた東京へ帰らねばならない。あっけない、一度きりの関係が終わってしまったと思いきや、あっぱれ峰太郎が迎えにすっ飛んできます。ビーサンアロハシャツで(最高の男です)

んで、ゲイであることを理由に嫌がらせをしてくる同僚を殴って会社を辞めて沖縄に移住するラスト。この滝沢先生の作品は「拾われオメガはアルバイトフィアンセ」も読みましたが、暴力での解決が多くて非常に良い。(愛は暴力といつも言っていますが)差別や抑圧への抵抗の発露として、自分を踏みつけた相手を、クソな社会にファックと中指を立てる!そんなアツさのある作家さんです。

主人公カップル以外の周囲の人々もみんなアライかクィアで、雰囲気が良かった。

 

 

BL小説を読もう。

高遠琉加先生と菅野彰先生とゆう素晴らしい作家さんの本を読んだのでまた感想を書きにきます

 

 

シリーズものBLでおすすめの作品

いつもは1巻で完結するBL作品を読むんだけど、たまには長く続く名作シリーズが読みたくなるときもある!

漫画と小説から一つずつ私のだいすきなBLシリーズを紹介します😊 ネタバレ注意。

 

丹下道『恋するインテリジェンス』シリーズ

公式サイトはhttps://tangemichi.com/intelligence/:こちら

 

まずは漫画の方。

過労などの労働問題、お堅い公務員、政界財界との結びつき…そんな官僚社会はもちろん男性社会なわけで……当然ながら男と男の痴情のもつれが生まれるんですね。外務省、財務省厚労省…と中央省庁の超エリートたちが出てくるんですが、エリートらしからぬ健気さ。金があっても権力があっても家柄が良くても顔がよくても仕事ができても、それじゃだめなんだ。男でも好きな男ができるとエリートという虚勢の男らしさは崩れてしまう。恋とエロに全力投球、自分の脆さ弱さを見つめ直した男たちだからこそ、エリート。強い男ってなんだろう?それが知りたければこのシリーズを読むべきです。

 

ポイントその① バディ制度 

各国の要人護衛任務、スパイ任務…なんでもありのKヶ関では、とにかく体を張って仕事をする官僚たちがいます。その特殊任務の一つに、トップとボトムに分かれたお色気バディ制度があります。ボトムが女装したり、カップルとして潜入したり、仕事の一環としてセックスしたり…訓練と称してセックスしたり…官僚ってなんだっけとなりますが、緻密な組織図や関係図が設定されているので謎の説得力がある。まさかほんとにKヶ関に存在するとかないよね!?働いてる官僚たちの「仕事もプライベートたも充実した生活」が描かれるので、応援したくなる。

 

その② キャラクターの魅力

「地球並みの長身肩幅太平洋超超大金持ち美形攻め×仕事のできる健気でかわいくてきれいな細身美人受け」のBLこそが真理と言わんばかりのカプ傾向。見た目で受け攻め完璧に二分でき、ボトム役は女装が似合うことが鉄則なことからもわかる通りカップリングがパターン化してるはずなのに、ぜんぜん飽きがこない。型の応用がもう黒帯レベル。BLの呼吸・壱の型だけですべてを終わらせる、王者が描くBL。

理由としては、受け攻めという枠に嵌めつつも個人個人のキャラクターの生育歴や性格、過去のトラウマがよく練られていること、カップルの関係性の「こじれた部分」と「乗り越え方」を多様に描いているからだと思います。それは仕事の失敗だったり、親からの重圧であったり、貧富の差であったりするのですが…

 

その③丹下道の漫画でしか味わえないスピード感

色任務にあたるバディのトレーニング通称「I倉実習」がちょこちょこ出てくるんですが、これがなんかめちゃくちゃ面白い。めちゃくちゃ本人たちは仕事と恋がかかってるので二重に真面目なんですけどやることやる実習なので、かなりオモロい。受けと攻めの体格差はもはや浮世絵のような様式美です。

私が今応援してるのは9巻から活躍し始めた春日×木菜ペア。クズ男後悔攻め×健気不憫美人受け。墓穴を堀ってばかりでI倉実習でさえも受けを掘れなかった本命童貞の懺悔が今後の楽しみです。

 

 

 

樋口美沙緒『ムシシリーズ』

小説です。

数千年前、生態系の危機に瀕した人類は、強い生命力を持つ節足動物門と意図的に融合をはかった。今の人類は、ムシの特性を受け継ぎ、弱肉強食の『強』に立つハイクラスと、『弱』に立つロウクラスとの二種類に分かれている。
イクラスの能力は高く、体も強いので、彼らが就く仕事は自然と決まり、世界の富と権力はいつしかハイクラスが握るようになった。
ムシの世界の弱肉強食が、人間の世界でも階級となって現れている……という世界観。

 

おすすめポイント

その①愛について考え抜かれている

2010年から今も続くムシシリーズ。

「愛とは何か?」

「愛で人を救えるか?」

「愛は何を傷つけたか?」

あらゆる答えはこのシリーズに詰まっていると言っていい。レイプシーンや妊娠・出産描写がが多いので読む時は注意が必要です。

「好き」も「愛している」も何の解決にもならない。むしろ傷つけ合うばかり。なのになんで、ひとは一緒に生きようとするのか? 

愛を決して美しさでまとめず、その暴力と汚さを書くのがBLなんだ!!!と殴られた気分になる。どれか一冊ではなく、シリーズ全体を通してこそ作品のエグみを味わってほしい〜。

 

その②志波久史という男

ムシシリーズで一番好き。愛の暴力性について痛いほど書いてある『愛の夜明けを待て!』

攻めの志波がアロマンティック的キャラクターなので、AroAce作品を読みたい人にもおすすめ。

「僕が愛せなくてかわいそうで、愛されなくてかわいそうに見えてたでしょ? 黄辺は……愛し愛されることが幸せだと思ってるから。そうできない僕が、憐れだったんだよね」好きなセリフです。

愛を返さないまま金や情や優しさだけを渡してくる志波を、黄辺は「酷い男だ」「こんなのは暴力と変わらない」と罵ります。けれども、愛を必要としない志波からすれば、恋や愛が当然あるものだと思って疑わないこともまた暴力なわけで…

志波のどこにも足を置かない世界との関わり方は、恋愛中心主義社会での居場所のなさでもあるのかなと思いました。

また黄辺も愛によってものすごく傷つきながらも愛について考え抜く男で、この2人のラストはムシシリーズの中でも大好きです。

 

 

 

 

『星の花が降る頃に』をクィアな視点で「読むこと」

 

『星の花が降る頃に』という教材

最近、なんかモヤモヤするよね〜と話していた教材。かんたんなあらすじ。

 

中学生の"私"には、夏実という小学校からの親友がいた。けれども、クラスが別になると徐々にすれ違うようになってしまう。思い出の銀木犀の花をきっかけに仲直りしようとするが、うまくいかなかったところをサッカー部の戸部君に見られてしまう。弱みを握られた気分になるが、戸部君は冗談を言って"私"を笑わせてくれる。
"私"は気を取り直し、学校の帰りに銀木犀のある公園に寄る。そこで掃除のおばさんと出会い、「銀木犀はどんどん古い葉っぱを落っことして、その代わりに新しい葉っぱを生やしている」ことを知る。

"私"は持っていた銀木犀の花を落とし、前向きな気持ちで木の下から出ていく。

 

中学生の繊細な心の揺れ動きや、友だちとの関係性がほんとうに気持ち悪いくらい上手に描かれている。疎遠になった数々の友だちのことが強制的に思い浮かび、読むだけでウウッとえぐられるものがある。

 

 
どんな読み方がなされてきたのか

一言で言えば、「"私"の心の成長」だろう。

心の成長についての解説記事はたくさんあると思うので割愛するけど、わたしが当時この作品を使ってやったのが「続き物語を書こう」という活動だった。

八木 雄一郎の研究(2016)によると、生徒たちの書いた『星の花の降る頃に』の「続き物語」はいくつかのパターンに分類できたという。

 

「友情」「恋愛」「友情十恋愛」に分類することができ、さらにそれらを交流させていくと、「友情」が減少し「友情十恋愛」の作品が増加するという結果が示された。 この結果から「続き物語」の交流とは,学習者たちに作品の主題への着目を促す契機になりうる活動であるということが指摘できるだろう。 『星の花』は「私」の視点で語られる物語であり、作中における「私」の意識は、「夏実」との関係(およびその回復への願い)に向けられている。 学習者がこの「私」の語りや願いに寄り添おうとすれば, 「続き物語」にお いても「夏実」との関係をなかは必然的に採り上げることになる。 1回目 の「続き物語」において「友情」の作品が18件に及んだのも,そのような動機によるものと考えられる。そしてそれは決して「誤り」とは評価できない。

 

「誤り」とは評価できない、というのは、「正解でもない」ということなのだろう。論文は以下のように続く。


しかし本教材においては, 「銀木犀」の花言葉が「初恋」であることや、作中における「(銀木犀の木が)どんどん古い葉っぱを落っことして、その 代わりに新しい葉っぱを生やす」「袋の口を開けて、(かつて夏実と拾った) 星形の花を土の上にばらばらと落とした」といった表現、さらにタイトル の『星の花(=銀木犀)が降るころに』の意味などを鑑みると、「夏実」のみではなく「戸部君」との新しい関係に着目していくことが、より十全に作品の主題に接近していくことになるはずである。

つまり『星の花』は「友情」のみではなく(ほのかな)「恋愛」がそこに示唆されている物語であり、2回目の「続き物語」において「友情(?)十恋愛(?)」群の作品が増加するのも、そのような作品主題への意識や理解が傾向として深まったことの証左であると考えられるのである。

 

八木 雄一郎,2016年11月19日,「続き物語」の交流がもたらす文学的文章の読みの変容 : 『星の花が降るころに』を素材として,『信大国語教育』(26 39-52)

https://soar-ir.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=18719&file_id=65&file_no=1

 

 

わたしがモヤモヤするのは、この作品を読むときの視点が、非常に異性愛主義的な価値観に偏っていると感じるからだ。

 

 

 

異性愛主義の中でラベリングされる関係性
  • "私"と夏実
  • "私"と戸部君

 

この2つの関係性は、いともたやすく名付けられてしまう。

 

  • "私"と夏実→友情
  • "私"と戸部君→恋愛

 

というふうに。

さらにそこに「成長」が加わって

 

  • "私"と夏実→友情(古い葉っぱ、過去、捨てる関係)
  • "私"と戸部君→恋愛(新しい葉っぱ、未来、前向きな関係)

となる。

 

でももし、戸部君も女子キャラクターであったなら?

"私"と戸部君の関係は女同士の新しい「友情」と読み替えられ、「恋愛」のラベルは貼られなかっただろう。

もし、"私"が女性ジェンダーでないとすれば?

なぜこの物語は、"私"が主人公だったのだろう? 

 

"私"が女性であるという認識があるからこそ、同じ女である夏実との関係は「過去の友情」として処理され、異性であるというだけで戸部君との関係は「恋愛」として読み取られる。

「同性との友情」「異性との恋愛」

人生って2択しかないの???

そんなわけないよね。

 

 

 

成長って何?

上記のような異性愛主義的な視点で「読むこと」は、もしかすると生徒にこんなメッセージを与えているのではないかと思う。

 

①女同士の「友情」は続かない

②異性との「恋愛」に目覚めよ

③「同性との友情」は捨て「異性との恋愛」に目覚めることが「成長」だ

 

つまりこの物語の「成長」は強制的異性愛主義に子どもを取り込むものであると思う。

無意識のうちに、こうした考えは内面化されていく。『星の花が降る頃に』で読まれてる「(女の子の)成長」って、正直『たけくらべ』の頃からあんまり変わってないんじゃねーのと思ってしまう。進歩なさすぎるでしょ…

女同士の特別な関係は、異性との恋愛→結婚までのモラトリアムでしかない。

 

女の子が恋愛以外のテーマで主人公として活躍する小説は、(増えているとはいえ)ただでさえまだ見つけにくい。女の子が主人公の小説をわざわざ教科書に載せるなら、こんな暗い話じゃなくてもっと女の子たちのエンパワメントになるような話を載せればいいのにな、と思う。

だからこそ、「友情+恋愛」でどっちもありの「続き物語」を書く生徒がいるんだと思う。

 

 

中学生だったわたしへ

当時のわたしはといえば、この異性愛主義的な戸部君との「恋愛」読みにかなりザクッと心が傷ついていた。(ということは今でもそういう生徒はいるはず)

 当時のわたしは1番仲の良い親友だと思っていた女の子に対して過ぎた友情なのか恋愛なのかわからない感情を抱き、結果、リアルのレズはないわ〜的なシカトとともに疎遠になった。デミロマやアセクやレズビアンという概念を知った今でも、友愛と恋愛の区別はつかないし恋愛はよくわからない。

ただ、性別二元論的で異性愛主義な社会というのに対して、そういう難しい言葉は知らないながらも、この『星の花が降る頃に』を授業で読みながらなんとなく疎外感を覚えていた。

だって、

 

去年の秋、夏実と二人で木の真下に立ち、花が散るのを長いこと見上げていた。気がつくと、地面が白い星形でいっぱいになっていた。これじゃ踏めない、これじゃもう動けない、と夏実は幹に体を寄せ、二人で木に閉じ込められた、そう言って笑った。

 

夏実と私はここが大好きで、二人だけの秘密基地と決めていた。ここにいれば大丈夫、どんなことからも木が守ってくれる。そう信じていられた。

 

ここでいつかまた夏実と花を拾える日が来るかもしれない。それとも違うだれかと拾うかもしれない。あるいはそんなことはもうしないかもしれない。
どちらだっていい。大丈夫、きっとなんとかやっていける。

 

もうこんなのは女の強い感情じゃん!?

どう考えても、戸部より夏実でしょ…涙

仲直りうまくいってもいかなくてもこれは百合小説ではないですか!?

ボール磨きながら説教をしてくるタイプ、モラハラの匂いを感じる…騙されるなよ隣にいることを許されてるからと言って両思いとは限らない。

 

なんというか、夏実とすれ違って孤独を感じてる"私"が、親友だった女と喋ることもなくなってどーしてこうなったんだろ…てメチャクチャになっていた自分と重なる。話しかけようとして顔背けられるのわかる〜ってなる。

 

だからわたしは、昔のわたしに言ってあげたい。今この教材を読んでモヤモヤして検索かけてこの記事をよんでくれてる中学生の子とかにも言いたい。

「同性との友情」「異性との恋愛」以外の人間関係もちゃんとあるよ。友情捨てなくても、友情に敗れても、恋愛しなくても、それなりに成長できるよ。てゆうか、そんなパッキリ関係性も感情も割り切れないし、グラデーションじゃなくてぐちゃぐちゃのマーブルだし、わかんないままでもなんとかやっていけてるよ。ずっと銀木犀の下にいてもいい。そこから出なくてもいい。戦わなくてもいい。

 

 

なにを教えているのか?

こうした強制的異性愛からのがれるために、何度も何度もカミングアウトしたり説明したりしなければならない。してもわかってもらえないし、職を追われたり命の危険に晒されたりするときもある。

そもそも明確な答えはないのだ。ぐちゃぐちゃのマーブルなのだから。ノンバイナリーやレズビアンという言葉は誰かにとってのアイデンティティではあるけれどすべてではない。わたしの言葉ではなくこの社会で制度化された言葉であって、わたしのすべてを語らない。

 

でももちろん、わたしが「同性との恋愛かも」「恋愛や友情以外の何かかも」って読んでるように、「同性との友情」「異性との恋愛」っていう読み方をして楽しむ人もいる。

この教材を扱う大人はせめて、あくまで読み方の一つとして、「過去の同性との友情」「未来の異性との恋愛」=「成長」だけに決めつけないでほしい。そういう強制的異性愛の方程式は綺麗に見えるけど、余りになってる生徒や振り落とされそうになってる生徒がいると思うから。

間違っても、「これ読んだ女子はみんな戸部君に惚れてるだろ」とか「男と女はくっつくものだから」とか「恋をして大人になった」とか言わないでほしい(実体験)

 

中立だと思ってるものはぜんぜん中立じゃない特権であるときもある。わたしもその特権を得ていて、自分をずるいと感じる時がある。

 

それでも、どんなセクシュアリティジェンダーにも関係なく「恋は絶対経験するもの」「友情vs恋愛」という押し付けって嫌じゃない? 人それぞれじゃん。

こういうロマンティックの上澄みだけ飲ませるようなことはせずに、学校でも性的同意やDVや避妊やリプロダクティブライツについてもちゃんと取り扱うべきだよ〜…

とはいえ、わたしもそれらをきちんと教えられるかってなったら難しいし、クィアリーディングがしたくても教えないといけないことは山ほどあるし、ここに書いてるのは自戒でもある。

マーブルのままでもいい。銀木犀の木の下に籠っててもいい。むしろこの作品はマーブルよりの話であるし、そんな読み方ができたらいいのにな。

 

 

クィアな教育って何?

LGBT教育やセクシュアリティ教育、ジェンダー教育というのは、ただその時間だけ性について話を聞いて終わり、というものでは(当然ながら)ない。

むしろ日常生活や授業の中での大人の発言や振る舞いといった潜在的なカリキュラムこそ、見えない抑圧となって子どもたちのジェンダー観やセクシュアリティの受容に影響してくる。

もちろん特権にのっかったセクシズムをする先生ばかりではないけれど、学校や職員室はかなり保守的で安心できない空間だ、というのがわたしの印象だ。

でも少なくとも今は、制服が男子用・女子用ではなくAタイプ・Bタイプだったりズボンもスカートもどちらでも選べたりする。ジェンダーについて不適切な発言をした先生を校長先生が注意していたり、あいうえお順の出席番号になっていたりする。確実に、私が生徒だったときよりはよくなっている(と信じたい)

 

だからこそ、日頃の教科の授業でも、もっとクィアな学び方ができるんじゃないの?とも思う。メロスなり山月記なりとくに国語は言語でそれをしていくべき教科だと思うんだけど…あと英語や数学の教科書の案内キャラが男女で対になってるのもやめてほしい。ノンバイナリーやトランスジェンダーのキャラも出してほしいし、かっこいい女の子や男らしくない男の子も出してほしい。

 

 

 

 

 

키워서 잡아먹히기(育てて食われる話) 感想

 

 

みなさん韓国の電子書籍サイト、RIDIBOOKSを知っていますか? 漫画も小説もBLGLTLなんでもござれの宝の海です。

今回レビューするのはそんなリディで配信されている韓国BL小説です。

(リディブックスの登録・利用方法は他の方がたくさん解説してくださってるので割愛します〜)

 

『키워서 잡아먹히기』

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作者は까만고래先生(読み方はたぶんカマンゴレ、意味は黒クジラ、blackwhalle)です。先生のTwitterはこちらです→ 까만고래 (@blackwhalle) | Twitter


タイトル訳すと『育てて食われる話』といったところでしょうか?

私が紹介するBL小説なので内容はもうなんとなくおわかりかと思いますが、年下攻め年上受けの本格的なBDSM小説です。

 

あらすじ

攻め: カンヒョヌ 29歳

裁判所公務員。 エリートコースを進む道徳の教科書のようにまっすぐな男。その内面には、サディストでドムの傾向があるという、人に言えない鬱屈とした秘密を抱えている。


受け: チョンヘイン 34歳

インテリアデザイナー。 マゾヒストでサブの傾向がある。自分を支配する強力な相手を探している。欲望を隠すことがなく積極的。

 

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マゾヒストのヘインは本物を求めていた。強力な支配者を。セックスの関係ではなく、本当のSMプレイをできる相手が欲しいと、飲み仲間であるジョンウに嘆く。

またジョンウは、品行方正な後輩のヒョヌが酔った拍子に心の奥に支配的な欲望を抱えていることを知る。

ジョンウは迷わず2人を引き合わせることにするが……。

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感想(ネタバレ注意!!)

 


見どころその1 【理解ある友人】

まずヒョヌとヘインのキューピットであるジョンウが2人を引き合わせることになる場面が非常に秀逸です。

「俺には元々いつもそんな欲求がありました。 痛くして、苦しめて泣かせるような……。 俺は、俺はゴミです……」

人に言えない悩みを抱えたヒョヌは、暴力的な行為を犯しながら興奮する夢を見て悶々としていることを酒の力で吐き出します。

驚きつつも後輩をフォローするジョンウの一言👇

「俺のよく知ってるゴミを紹介するから元気出せ」

そうしてジョンウは、幼馴染のドマゾ野郎をかわいい後輩に紹介するのであった…

 

 

見どころその2 【育てること】

ジョンウの紹介で知り合ったはいいものの、2人にはさっそく問題がありました。

それは、ヒョヌが全くのBDSM初心者であったということです。完璧なドムを求めるヘインですが、外見は好みど真ん中にもかかわらずヒョヌはまだまだ遠慮がちです。ヘインはヒョヌに酒を飲ませ、夢の中でどんなプレイをしたのかとけしかけます。


マゾヒストのSubとして今まで服従的で受動的だったヘインは、ヒョヌを理想のDomに育てるために自ら能動的かつ主体的にプレイを先導し、持てる限りの技術を教え込みます。

物覚えの良い優秀なヒョヌもまた、どんどん自分で学んでヘインのためにがんばるところがすごくかわいいです。そんな一生懸命な年下の男に無意識に絆される年上の美人……というBLセオリーもきちんと踏んでいます。

支配と服従のロールプレイを行いながらも、実際の権力関係は逆という危ういバランスで前半2人の関係は成り立っています。

 

 

 

見どころその3 【忠実なBDSMプレイ】

R18のBLといえばアナルセックスですが、性器の挿入シーンがほぼありません。(記憶があやしいのと翻訳しながら読んだので定かではないが、アナルへの男性器の挿入は一回くらいでそれも攻めの射精なしだったと思う)

なぜかというと、性器による快楽ではなく、徹底的にBDSMプレイによる快楽に重きが置かれているからです。

プレイ中もむしろ攻めの快楽は二の次で、あくまで受けであるヘインの感じる痛み、苦しみ、恥、屈辱、それによって引き起こされる快楽が描写の中心です。最終的な決定権はSubにあるからこそ、そのセーフティネットが完全な服従を可能にするのです。それは作者先生がDomの責任や理性を描くことと、ヘインを思うヒョヌの忠実さを描くことを意識していたからだと感じました。


SMと銘打たれていながらも結局はイチャラブな恋愛セックスになだれ込む作品も多い中、最初から最後までBDSMだったので安心感がすごかったです。


わたしのお気に入りシーンは、呼吸コントロールプレイの一環でサブがマンション17階を階段ダッシュで登らされたところです。エレベーターあるのにわざわざ階段で、しかも着くのが遅すぎるとお仕置きどころかプレイやめて帰りますから……て言われてて最高でした。

 

 

見どころその4 【恋愛とBDSMの両立、およびそれらの暴力性について】

ヒョヌはヘインの優しさや美しさにどんどん惹かれていき、BDSMパートナーとしてだけではなく恋愛パートナーにもなりたいと願うようになります。

頑なに拒むヘインには、苦い思い出がありました。

後半では、ヘインの学生時代の元パートナーがストーカーと化します。はじめは男子大学生同士の恋愛から始まった関係は、生粋のマゾヒストのヘインが彼をSMプレイに誘ったことで徐々に歪み始めました。周囲にゲイだと知られてしまった元パートナーは、うまくいかない人生のストレスをヘインにぶつけていました。対等だったはずの恋愛関係は、SMロールプレイではない、デートDVへと変わってしまったのです。望まない過激な行為を強制されながらも、さまざまな負い目や恋愛的な情から別れられなかったヘインはどんどん傷つき弱っていきました。


Dom/Subに恋愛を持ち込むと理性のない暴力に変わる


そのつらい経験は、必要以上に他人と深く関わらない、恋愛しながらのBDSMはしない、という今のヘインを作りました。


セーフワードがなぜ必要か。命の危険すら伴うBDSM行為には、お互いの安心安全が基本です。"異端で異常な性癖"のBDSM文化はその暴力性を自覚的に認識しているからこそ、理性やルールを強調するのではないでしょうか。嫌なことははっきりと嫌と言える信頼関係でなければ、少しの苦痛もトラウマや怪我にもなりかねないからです。

一方、恋愛はどうでしょう。恋人だから、という理由で望まない行為に応じなければならなかったり避妊を拒否されたり、断ればDVを振るわれる。恋愛は対等に成り立つ関係だと見逃されがちですが、暴力的な側面もあります。

 

また少し話はずれるかもしれませんが、「人間は恋愛を経験することが当然である」「その先には性愛や生殖、そして結婚が当然ある」といった規範もまた、ときに暴力となりうるものです。「恋愛をしたくない」「恋愛に興味がない」「恋愛をしているが同じ感情を向けられたいと思わない」「恋愛と性愛は別」「フィクションの恋愛は好き」「恋愛がよくわからない」いろんな形があるのです。


「Dom/Subに恋愛を持ち込むと理性のない暴力に変わる」という言葉は、恋愛という一言で雑に覆い隠されている多くのものを曝け出すセリフでもあると思います。ヒョヌとヘインの関係は、BL読者を立ち止まらせ、恋愛とは何か?なぜ私たちはBLを読むのか?と問いかけてくれるものでもあるのです。

恋愛、D/S、どんな関係であっても身体的・性的・経済的・社会的・精神的……さまざまな面で人は権力構造の中にいます。その権力関係はいつでも、少しのことで暴力や抑圧に変わるかもしれないのです。


そしてそうならないために、ヒョヌとヘインは何度も衝突し話し合い契約のルールを決めて変えていくのです。つまりお互いを別の人間として境界を知り、お互いの希望や欲望について交渉し対話する、そうしてこそ初めて自分を受け入れようとしてくれるパートナーの意欲に気づくことができ、安全が保たれるのでしょう。

 
 

見どころその5 【食われる】

手のひらで転がしていたはずのかわいいワンちゃん。なんならちょっと優しすぎて物足りないな……そう思っていたのに完璧に育つのが年下攻めです。

ストーカーも撃退し、信頼で結ばれた2人はD/S関係だけでなく恋愛関係をも始めるようになります(ちょっとデミロマ的だよね!?)

BDSM行為は制限された空間でのロールプレイを超え、24/7の日常統制になっていきます。

ミッションの命令と遂行、それに伴う管理統制、調教や体罰……という繰り返しでプレイはレベルアップしていくのですが、初めは苦痛を与えてもらうためにわざと反抗して煽りまくっていた年上Subが開眼した年下のDomの前でガチの恐怖に震えて後悔しつつもドマゾゆえにその成長が悔しくもうれしい……こんなかわいいのにかっこよく完璧に育ってしまってこんなの服従するしかない……て床に膝をつく年上受けの法則を発揮しててそこもよかったです。


あとひとつ誤解されそうなので付け加えておくと、ヘインは元パートナーから暴力を受けたトラウマによる自傷行為としてSMにのめり込んでいたわけではないです。確かにトラウマではありましたが、誠実なヒョヌと一緒にBDSMの繋がりでその傷を癒し乗り越えていく成長の物語でもあります。ヘインはもともと頬を張られるのが1番好き、バニラ一切お断りというドマゾで血が滲むまで尻を多種多様なお道具で叩かれて興奮する、そういう人間なのです。開き直っていいのかはわからんが……。

 

 

BLの攻め/受けは役割として(能動/受動、男役/女役)とも捉えられることがあります。もちろん受動的な攻めもいれば能動的な受けもいますが、そこにBDSMが加わると(加虐/被虐、支配/服従)という別な尺度?も増えるのでバリエーション豊かで面白いです。外伝はif設定のDSリバ(※挿入方向はヒョヌ×ヘインでした)でこれも短いながら読み応えありました。

英語圏のM/M小説はBDSM要素が比較的多いのですが(だって発祥の地?だもんね)、BLとしての恋愛要素や"萌え"を求めて読むとやや物足りないときがあるというのがわたしの感覚です。

 

『키워서 잡아먹히기(育てて食われる話)』は、BL小説とBDSM小説、そのバランスをうまく取っている作品だと思います。

外伝含め47話でサクッと読めて、かつ4500ウォン(なんと500円以下!)で読めるのでおすすめですよ♪

 

 

あと

ここまで書いといてなんだけど、ぜんぶ翻訳アプリで読んでるのでところどころ齟齬があったり人物名の読み方が違うかも知れん……ネットの情報は鵜呑みにしないでください。この記事は個人の感想です。