どこにでもよくいるノンバイナリのとある一日

 

 生まれる性別を間違えた。そう思いながら車を走らせる。だからと言って、今さら男になれる気もしない。完全な男になりたいとも思わない。

 「あんたは賢いから男の子だったらよかったけど、男の子だったら、パパにもっと酷く殴られていたからあんたが女の子で生まれてくれてよかったよ」と母親に言われた子どもの頃の記憶がふと蘇る。そんな理由で「女の子でよかった」と思うほどバカではない。

 仕事でも遊びでも、「男性」はわたしを「女の子」として扱う。「女性」はわたしを「女の子」として仲間扱いする。アクセルを踏めば車はわたしの意思の通りに速度を上げる。「女性」というジェンダーへの帰属意識のないままに、「男性」ではない身体で、わたしの性別はどこにあるのだろう。慌てて速度を落とす。

 わたしは、「わたし」という一人称を使うことすらしっくり来ないくせに、大学の時、「女性」になろうとしていた。髪を伸ばし、スカートを履き、KPOPアイドルの女の子のようなアクセサリーをつけて、女の子になろうとしていた。赤いリップをつけて、定まらない自分のセクシュアリティレズビアンだと仮定し、「女の子」を、「女性」を好きになろうとした。

 今から思えば、服を選ぶ時間も、化粧をする時間も、コスプレのような感覚だった。

 中学生のときの、鮮烈な記憶がある。体育会で、創作ダンスと、フォークダンスを踊った。体育は男女別修だった。わたしは、女性の列に割り振られ、女性の振り付けを習った。そこで不思議な現象が起こった。ダンスの練習のたびに、身体から血の気が引き、手足が冷たくなり、頭が真っ白になるのだった。

 創作ダンスに使われる異性愛ソングも、かわいいハートのポーズも、鑑賞者として、踊りたくて踊っている人たちを見る分にはどうでもよかった。が、そこに当事者として、演者として放り込まれるということは、また別なのだった。わたしは、何の違和感もなく「女の子」をできる女の子たちが羨ましくて仕方がなかった。呑気に踊る「男の子」たちに憎しみすら覚えた。どうすればああなれるのだろうと考えもした。

 幸い、わたし以外にもそうした「女の子」はいるものだ。「オタクインキャだから踊れねー」「盆踊りなら踊れるのに」ということにして、体育の間は端っこの方で、おしゃべりに興じた。「女の子」として割り当てられた役割が嫌だったからか、単にダンスが苦手だったからか、ノンバイナリーだからなのか、それは人によるのだろうけれど。

 男子との合同練習の日には、男女ペアで手を繋いで入場させられる。思春期には気まずい時間だったから、みんな指先だけ繋ぐとか、触って悲鳴を上げるとか、はなから手を引っ込めておくとか、謎の行動をしていた。ブスと手を繋いでも、美人と手を繋いでも、「男の子」たちは騒いだ。相手を人間ではなく、異性として見てジャッジを下すその時間が、わたしを「女の子」であるという恥ずかしさへ突き落とした。誰とも手なんて繋ぎたくなかった。

 (学校生活において「女性」に「なる」過程を思い出すたび、それが恥であり自信を失うような気分になるのは本当に意味がわからないと思う)

 しかし、わたしは隣の「男の子」ときちんと手を繋ぐことにしていた。そこで手を繋がず、恥じらってみせるということは、わたしにとって、わたしが「女の子」であることを認めることと同義だったからだ。

 なのに、相手の「男の子」は恥ずかしがった。「おまえは女子じゃけん」わたしは終始、隣の身体が羨ましくて仕方がなかった。同じになりたかった。同時に、どちらでもないものになりたかった。フォークダンスの円の外に出たかった。いわゆる中二病だった鋭敏な文学少女の感性がわたしを突き動かし、真っ黒のマジックで、クラスTシャツに「人間失格」と書かせた。ちなみに背中には、クラススローガンの「絆」が書かれていた。

 体育の時間はおしゃべりをして、放課後の自主練習は全てサボったおかげで、本番のダンスはメチャクチャだった。胸元にデカデカと輝く「人間失格」の文字を見て、フォークダンスの相手は顔を引き攣らせていた。担任の先生は少し戸惑った顔をして、そのあと満面の笑みで「太宰治じゃん!?いいね、さすがよく知っとるね」と言ってくれた。わたしはこの先生を恩師と仰いでいる。

 

 思い返せばあれも些細な抵抗の一つだったとわかる。わたしは就職をして1年目の夏に、長かった髪をさっぱりと短く切った。職場は10年前と大して変わらず、男女二元論と異性愛規範の巣窟だった。2年目の夏には、大量のメンズ服を買い、それを着ることにした。KPOPアイドルはナムジャの楽曲を聴くようになり、彼らのファッションを真似するようになった。眉は濃い目に引くし、アイラインはうっすらとさせるだけで、ラメはつけない。顎をシャープに見せたくてシャドウを入れる。インスタではメンズのヘアセットをブックマークし、外に出れば厚底靴を履く。理想のシルエットになりたくて、ナベシャツを買った。

 スカートを履く女も男もノンバイナリもいていいし、ジェンダーと性表現は別物だということは、わかっている。スカートを履かないと決めたわけではないが、今は、履くと猛烈な違和感に襲われる。キラキラしたリボンやレースは大好きだ。ジュエリーを愛してやまないし、コスメもついつい買ってしまう。休みの日は一人称を「ぼく」にして過ごす。そのことをこうして書いてしまう。

 

 「自分を記号に当てはめようとしているように見える」「"発信"しすぎではないか」と友人に言われた。そう見えるのならば、たぶん、そうなのだろう。

 ただ、わたしはこれまで、割り当てられたくもない望んでいない記号の中に押し込められてきた。その苦しみや痛みを、誰に聞いてもらうでもなくネットの海に放流させている。そりゃ読まれたら嬉しいけど、べつに読まれなくてもいい。そもそも、データやインプレッションを見れば、読んでいる人がほとんどいないことくらい知っている。政治的にうるさい「ノイズ」として扱われたように感じて、かなしかった。そしてそれがあくまで「友人としての心配」の皮を被った言葉だったのでむかついた。

 「あなたのため」を装った言葉が、どんなに政治的で、鋭利なナイフであるか。わたしは傷つきもしたが、立ち直り始めている。一人でドライブをして、一人でパンを買い、一人で景色を見て、一人で婦人科に行き、一人で楽しい。歳をとったとしても、一人であっても、楽しくやっていきたい。