絶対に読んでほしいBL小説

夏だー。

時が経つのは早すぎる。

こうしてね、働いたりね、疲れて寝たりね、なんやかんやしてるうちにいつか死ぬんだろうなと思うと鬱になります。

そんなときこそBLを読むのだ。

 

菅野彰「毎日晴天!」シリーズ

大見出しにしちゃった。

 

東京の下町、竜頭町にある帯刀家。ある夏の日、長女・志麻の結婚相手として、大河の高校時代の親友・秀が訪ねてくる。突然知らされたことに大反対する兄弟たち。しかし、志麻が旅行先で失踪してしまったことで、なしくずしに兄弟たちと秀とその養子・勇太との奇妙な同居生活が始まる。

 

このシリーズはもうね……言葉では言い尽くせない。

「子どもの貧困」という問題があるけれど、ある意味で、この毎日晴天!シリーズは「子どもの貧困」が底にある小説だと思う。

親との死別、あるいは、ネグレクト。貧困。格差。DV。アル中。

経済的にも精神的にも環境的にも「貧困」に置かれた子どもたちがどう生き抜くか、どうやって生きるしかなかったか、というシビアなテーマの中に、それでも「どんな子どもも幸せになっていい、きみは幸せになれる」というメッセージを感じるの。

 

父、母、子どもが何人か。余裕があればペットを迎える。

現代社会はそんな核家族が「ふつう」の家族だ。でも、そんな「かんぺきな」家族ばかりではない。片親家庭や血の繋がらない家族。同性カップル。単身世帯。いろんな形があるのだけど、わたしたちの頭の中には「ふつうはこうあるべき」という規範が刷り込まれている。

 

 帯刀家はどうだろう。男四人兄弟に犬一匹、それに押しかけ夫とその養子の大家族。

 みんな「本当の親」を、何らかの事情でなくしている。「親」のいない子どもたち。

「ふつう」じゃないよね。めっちゃ「変な」家族なの。

帯刀家の兄弟は、互いが「家族」を守ろうとして、自分を犠牲にしていたり、相手を傷つけていたりする。毎日晴天!は、「家族の絆」ではなくドメスティックな「家族のグロさ」を書いているクィア小説でもあるのだ。

「親」がいなくても生き抜くために、「兄」は「親」を、「弟」は「子」の役割にがんじがらめになっていく。あるいは、「亭主関白な父親的兄」「家事の得意な優しい母親的存在」「いつまでも甘えん坊な末っ子」になる。「変な家族」が「ふつうの家族」になろうとしているみたいに。

その違和感は、シリーズ前半の勇太の違和感やイラつきが代弁してくれているのだけど、ティーンのくせに妙に達観してしまっている勇太が帯刀家の末っ子・真弓に振り回されていくところがめちゃくちゃ……とにかくすごいんよね。

ヒルで賢くてちょっと影のある勇太は、大人組よりも大人ってくらいキレッキレに突っ込んでくる一方で、ネグレクトの過去がある。薬物に手を出したり未成年飲酒したり売春に関わってたり、もうこれでもかってくらい「社会から見捨てられた子ども」だった。手を差し伸べてくれた秀のおかげでまともな陽の当たる社会に出てこられたという過去がある。

ゆえに、真弓と恋愛関係になっても、真弓との「格差」を気にして逃げてしまったり、不安になってDVをしたりする。そしてまたDVをしたことを後悔したり……するんだけど、この「生い立ち」がなせる価値観の違いが切実すぎて……。

もはや『パラサイト』の半地下家族と豪邸に住む家族みたいな「社会的弱者/強者」「貧乏/金持ち」みたいなわかりやすい格差じゃないのだ。

帯刀家の兄弟も、秀も、勇太も、みんな社会の中では「弱者」。踏みつけられてきた側の人間なんだけど、その「弱者」の中にも階層ができてしまってて、その見えない分断をぶち壊して連帯するのってめちゃくちゃ痛みを伴うよね、っていうことが10年以上前に書かれているんですよ。それもBL小説というジャンルで。

卑屈でわがままな甘えん坊の真弓(傷はあるけど薬もあった子ども)が、勇太の「ひたすら痛めつけられて生きてきた子どもの心」を回復することに一生懸命になるところが好きです。自分はマイノリティだ(自分は弱い、もっと尊重されたい、生きやすくなりたい)と思って生きてきたときに、自分よりももっとマイノリティで息苦しそうな相手と出会ったときに、特権を振りかざすのか、特権を省みるのか。

 

最終的に、「父親的兄貴」「母かつ妻的夫」とかでもなく、大河は大河、秀は秀、真弓は真弓、勇太は勇太……と役割を外していって、「家族」から「個人」になっていくところが好きだなと思います。

 

今でこそ再評価されてほしい作品です。

若さの搾取と消費的な高校生BLを実写化するくらいなら、気鋭の俳優を集めて「毎日晴天!」をドカンとゴールデンタイムに2クール使って放送する方がいいですよ。

こういうBLこそ実写化してほしい。