『悪人の躾け方』感想

 

先月、こちらの漫画を読みました!

ダヨオ先生の作品です♡

 

あらすじ

ガタイよし顔よし余裕あり清掃員スパダリ年下攻め×元バリタチ悪態おじさん社長受け

 

もはや攻め受け属性を並べただけでもう展開がなんとなくわかってしまう(雨津木サン……)

 

『ロンリープレイグラウンド』という漫画が先にあり、そのスピンオフです。前日譚は未読なのですが、雨津木はバリタチで若い男の子をひっかけてはいじめ倒し、とにかく悪人だったようです。しかしロンリープレイグラウンドにて三角関係に終止符が打たれるとともに妻に浮気もバレ離婚され、年下の清掃員に今度は自分がハメられるとゆう、なんとも自業自得な状況です。タチを主張する男ほど受けなのは言わずもがな。BLにおいて自業自得とはたいてい受けが自分で自分の墓穴をそうと気づかず掘っていき業をケツで解消することですので、自業自得があればあるほどよいのですが、それはおいといて……(ちなみに攻めが自業自得する場合は受けに逃げられるときです)

 

感想(ネタバレ注意)

年上のおじさんが年下の若造に振り回され甘やかされ、いてこまされて余裕なくなってるだけでももう面白いのですが。

 

 

タチにこだわる理由

20年バリタチでやってきたという雨津木。針間に抱かれたあとも「抱く側」に戻ろうと足掻きます。彼はなぜバリタチにこだわるのか。

社長として地位も名誉もお金も手に入れている雨津木は、大企業を継ぐべく育てられた男です。父親には逆らえず、男らしく強くあれと言い聞かされてきました。

そんな雨津木は自らが同性愛者であること(そしておそらくウケとして男と性的な関係を結びたいという欲望)を自覚します。大学卒業後、身体だけの関係を求めて出会いの場を彷徨うのですが、父親にその事実を知られてしまいます。みっともない、男らしくないーーそう怒鳴られたことで、雨津木は自らのセクシュアリティを隠し、会社に相応しい後継者として、父親の望む姿で生きるようになります。

そして父親が死んだ後は箍が外れたように男性と関係を持つようになりました。けれど「男らしさ」の呪縛に絡みつかれた雨津木には、「バリタチ」として支配的に振る舞うしか自分を守る術がなかった(悪人になるしかなかった)のでした。

 

 

それの何が悪いんですか?

「雨津木さんのような偉い人が俺みたいな年下にこうやって世話される。それの何が悪いんですか」

好きな男をでろでろに甘やかす年下攻めのセリフなのですが、これは若い頃の雨津木が父親に言えずに飲み込んだ言葉でもあります。

父親の夢にうなされたり、悪態をついたりする雨津木ですが、身分も下、年齢も下、なのに態度と図体はデカい男に「可愛いですね」と尽くされてみるみるほだされていきます。

今までは年下の華奢な男性に支配的なセックスばかりしていたのが、年下の自分より大きな男に受け身で愛されることに安心と快楽を感じるようになります。

このことは、有害な男らしさの呪いを受けてきた雨津木という一人の男が、別の男との出会いによって自分の呪いを解く解放の物語でもあるのです。

この作品のすごいところは、雨津木の解放だけでなく、針間の解放についてもきちんとフォーカスして、そしてそのことが二人の恋愛の基礎になっているところです。

 

 

針間が雨津木にこだわる理由

それは、10年前の雨津木の父親の葬式がきっかけでした。短い数コマの中で、針間の父親も自分の妻や子どもに対して支配的にふるまう家父長制的な男性であることが示されています。そんな父親にため息を吐いていたところ、高校生の針間は喪主の雨津木に出会います。父親が亡くなったというのに涙ひとつ流さず、喪主の控え室でひとり黙々と寿司を食い続ける美しい男に。

針間も雨津木も「父親」「後継ぎ」という枷を嵌められていました。あのクソ親父の跡継ぎになんかなってやるものか、と毒づく高校生の針間の目には、似た境遇の年上の男はどう映ったのでしょうか。同情?寂しそう?仲間意識?

「寿司食うか?旨いぞ」

綺麗なお兄さんが目の前で飯に誘ってくれている、ということ以上の意味が針間にとってはあったのだと思います。

だからこそ針間は大手食品会社の後継者の椅子を蹴って、家出したのです。雨津木と出会うために。

 
悪人って何?

何かが悪とされるとき、それは本当に悪なのだろうか。この問いの答えは、上から見れば悪でも下から見れば悪じゃない、とかそういうことではありません。雨津木がこれまで他人を傷つけたり不倫をしてきたりしたことは明確に悪です。

しかし、雨津木がみっともないこと、男らしくないこと、男が好きなことーーそれらを悪と決めているのは、誰なんでしょうか? 社会であり、父親であり、家であり、雨津木自身です。

悪だと思い込んでいるものは、本当は権力によって悪だということにされているだけなのではないでしょうか。

「人が見てますよ」

「それの何が悪い」

二人の手に光るペアリングと朝のカフェでのキスは希望に満ちていて、少し泣きそうになりました。家を捨てた針間が始めたい事業がハウスキーパー代行業なのもなんかいいですよね。資本主義の悪からは逃れられてないですが……。

 

 

BLが描く男らしさの抑圧からの解放

男同士の物語で、男が有害な男らしさやホモフォビアの抑圧から解放される物語を読む私は男性ではありません。それでも「抑圧からの解放」というテーマに希望を感じてしまうのは、もしかすると「女性ジェンダーであること」「女性身体であること」「ヘテロセクシュアルではないこと」を引き受けようとするときに刺さってくる不平等や生きづらさがあるせいかもしれません。だったら女性が抑圧をふっとばす話を読めばいいのでは?と思うし、もちろんそうした物語も必要なのですが……自分のジェンダーから離れたい、男性という優位なアイデンティティを持つキャラクターが椅子から降りるところや高い下駄を脱ぐところが見たいのかもしれません。クィアになる、みたいな?そして楽になってる、ハッピーエンドになってるところを見て私も楽になった気分になるへんなカタルシス。でも大体はBLの男性キャラクターも別にそこまで降りても脱いでもいないと思います。

それに、女性が主人公の物語を読むとき、どうしてもそのキャラクターが「まなざされるもの」として描かれていることに抵抗があります。男性社会的な視線で身体や性格がデザインされ、現実の女性とはかけ離れたキャラクターになることに居心地の悪さを感じます。女性同士の恋愛を描いた作品でも同じです。そうした視線をなるべくなくそうとする映画やアニメはたしかに増えてきてはいて勇気づけられながらも、BLが手放せません。自分はなぜBLを読むのか?なんでこんなに好きなのか?というのが私のひとつの問いなのですが、答えはうまく言えないままです。ひとつ言うなら、ぐちゃぐちゃなところが好きなのです。

 

『悪人の躾け方』は雨津木と針間の絡みが濃厚なのもよかったです。エロくて美しくて……上でごちゃごちゃ書いてますが、ポルノ!萌え!エロ!なのもBLの一面で、それは切り離せないものなんですよね。

エロいところも含めていろんな人に読んで欲しい〜と思いました。

 

 

わたしの好きな人狼BL

 

 

今までに読んで心に残っている人狼BLを3つ紹介します。

まずひとつめ〜!

 

 

このWith or Withoutシリーズの人狼たちは、アルファをリーダーとする群れを作り、人間社会に溶け込んで暮らしています。運命の相手「メイト」という設定や、ベータ、オメガ、本能……一見するとオメガバースとも似た設定ですね。もともと「オメガバース」は英語圏の二次創作が発祥の設定であるらしく、狼の群れの社会性がモデルになっているそうです。ですので、本家本元(?)の文化圏の人狼オメガバースを読めると思うとワクワクするものがあります。
 アルファ、ベータ、オメガは性別ではなく、群れにおける役割や能力のことを表していて上下の関係ではあるのですが、必ずアルファとオメガが「メイト」になるわけではありません。With or Withoutシリーズではメイトとの出会いや対等な関係性、本能的な興奮がものすごく情熱的に語られます。体感的にはチェイとキートンが8.5割セックスしていました。 
 そんな「メイト」ですが、群れの中でのマジョリティは「人狼の男性×人間の女性」です。人狼は男性だけで、つまり変身できるのも狩りにいけるのも男性だけというすげえホモソーシャルです。ということもあり、メイトとの恋愛や絆だけでなく、ゲイやゲイカップルの受ける偏見や差別、家族へのカミングアウト、人種の違い、群れの違いといった葛藤も描かれています。アメリカ社会の複雑さやマイノリティの立ち位置が反映されていて、
2巻のジェイクとレミ、3巻のオーブリーとマットの物語まで読むと、ロマンスとセックスの中にもいろんなメッセージを感じることができます。
 同性愛嫌悪を内面化したクローゼットゲイの苦しみ、子どもの貧困・虐待や家父長制の抑圧。M/M作品は、登場人物がある思想や性格を持つに至るまでの人格形成や生育環境まで繊細な背景が練られていることが多いです。男同士の愛が育まれる中で自らのホモフォビア
Toxic Masculinity(有害な男らしさ)に向き合って、お互いの弱さをさらけ出し弱い自分を認められるようになる、そして父親に立ち向かうという解放と戦いの物語。その過程で母親や女性は殺されたり排除されたり、そこはBLと似たねじれた構造があると感じます。エンパワーメントではあるけど、女の物語ではない。熱狂しながら阻害される。
 チェイがすごく魅力的な男なのでめっちゃ好きなんですが、私は物語としては2巻のジェイクとレミのストーリーがお気に入りです!レミが自分のアイデンティティを受け入れ癒されていく過程も、BDSMの要素もあって、おすすめです!

 

 

 ふたつめはこれ。

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 「この子が今何を考えているか、聞くことができたら……」「だいすきな愛犬とヒトの友だちのように暮らせたら……」犬好きならば一度は考えるであろう夢が、本当にある! しかもM/Mで! という素晴らしい作品です。マッドクリークという小さな街、ところがその街には人間に変身できる犬たちが暮らしているという秘密があり……!?

 この作品のどこがいいかって「犬と人間の絆」が描かれるところなんですよね。たとえば1巻のティムは負け犬人生から逃げるようにしてマッドクリークに引っ越して来たのですが、「チャンス」という犬と生活することで傷ついた心を癒されていきます。実はチャンスの正体は、ティムをマリファナ栽培人だと疑う保安官のランスなのですが、犬として接するうちにランスもティムの優しさやタフさを認め、惹かれるようになっていきます。基本的に人狼×人間のBLなのですが、ヒトとしての感情と犬としての感情、その両面があってこそ人狼のキャラクターが映えるというか……

 マッドクリーク育ちで保安官のランスは人間寄りの生活が身についているんですがものすごく仲間思いだったり、2巻のローマンは軍用犬として生きてきた機関が長いだけに慣れない人間生活に苦戦していたり……とBL好きと犬好きが同時に満たされる作品です。これもやっぱり2巻がすき。事件の構成や心理描写も面白いです。原作も翻訳もkindleアンリミテッドに入っているので、両方を読み比べても楽しいです。冬斗先生の翻訳にうならされます。モノクローム・ロマンス文庫のシリーズ続刊をずっと待ってます。

 

 

みっつめ~!

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 echo先生のドギーシリーズ。もう好きすぎて何も言えないよ……。

 わたしはこのマイリトルドギーを読みながら死んだ愛犬を思い出しドバドバに泣く経験をしました。「トーマの心臓」や「バナナフィッシュ」を読んだときと同じくらい泣いたんですが、意味は正反対でハッピーな泣き方でした。.Bloomもわたしの中で好きなBLレーベルになりました。美形ドーベルマン支店長とデキる営業マン大山の「マイオンリードギー」の方がカップリング的には好みだったんですが、もうどっちもとにかくこの世の犬はみんなしあわせになってほしいとおもいました。

 

以上です。

 

アセクシュアルスペクトラム アンブレラ――Aegosexualとオタクについて

 Aro/Ace アロマンティック/アセクシュアルについては、検索すれば(まだまだ十分とは言えないにしても)基本的な紹介記事やコミュニティを知ることができると思うので、今回はもっとそのスペクトラムの細かいところ、アセクシュアルアンブレラの一部について調べたことを書いてみようと思います。

 オタクでクィアの自認のある人の中には「自分はフィクトセクシュアルだ」と感じている人もいると思います。もしくは「Aセク寄りかも」と感じている人もいるかもしれません。グレイセクシュアルやデミセクシュアル、リスセクシュアルかもしれません。性はグラデーションとは言いますが、男女の二元的なグラフ上であなたの性的指向は?と聞かれて困ったことのある人もいると思います。

 性的に惹かれる相手は二次元のキャラクターであったり(しかも年下の男に言い寄られている美人で高慢でずるくて快楽に弱い男性でないといけなかったりする)、恋愛的に惹かれるのはアイドルのメンバー同士の特別な絆であったり(でもアイドルはファンに向けて異性愛ソングを歌う)、あるいは恋愛よりも友情や他の親密性を優先したい相手がいたり、好きだし性欲はあるけど自分が主体的に恋愛やセックスをしたいわけじゃないとか、ひとそれぞれ……。BLが好きな人の中には「壁になりたい」なんていうスラングもありますよね。

 

 アセクシュアルは「性的魅力を誰にも感じないんでしょう?」「性欲がないんでしょう?」「セックスを嫌っているの?」いいえ、人それぞれです。いろんなAceがいます。

 自分がオタクであること、BLが好きであることをセクシュアリティの1つとして説明したいと思うとき、誰かがこの記事を読んでAegosexualやAsexual umblleraについて調べてくれたらうれしいなと思って書いています。

 

Aegosexual

 アエゴセクシュアル、エーゴセクシュアルと私は呼んでいます。

 Aegosexualは、性的空想を抱いたり、ポルノやその他の性的コンテンツを見たり、自慰行為をしたりすることがありますが、一般的に性的魅力をほとんど感じず、通常、他の人とのセックスを望んでいません。一般的なエゴセクシャルの経験には次のようなものがあります。

  • 性的コンテンツを楽しんだり、興奮したりするが、実生活での性的関係に対する興味や欲望はない。
  • 自慰行為をしているが、セックスには中立的である。もしくは、他人とセックスするという考えに反発する。
  • セックスを空想するが、自分自身は主体的に関与しない。一人称からではなく、三人称からそれを見る、身体を持たない観察者として空想する。
  • 有名人や架空の人物など、他の人のセックスだけを想像している。
  • セックスについて空想するが、相手は特別な誰かではなく、一般的でぼんやりした人々を想像する。
  • セックスを空想するが、実際の自己としてではなく、他人の観点から。
  • セックスを空想するが、自分を想像するだけで、他人を想像することはない。
  • セックスについて空想的するが、それは理想化されており、非現実的。ファンタジーに現実的な要素を追加すると、セックスのアイデアは魅力的ではなくなり、嫌悪感さえ感じることもある。
  • 誰かに対して「刺激的だ」と色気を感じたり、性的に魅力的であると認識していても、実際の生活でその人とセックスすることに魅力を感じていない。むしろ、その人とのセックスよりも空想の方が好きかもしれない。
  • エロティックなコンテンツを楽しんでいるが、人を惹きつけるというよりは、ストーリーラインの状況や人間関係のダイナミクスに惹かれる。

……どうでしょうか?

Aegosexualの歴史

  Autochorisexual(オートコリセクシャル)という用語は、人間のセクシュアリティを専門とする心理学者であるアンソニー・ボガールト博士によって、2012年につくられたそうです。当時、無性愛は精神障害と考えられていたため、彼はutochorisexualをパラフィリアと分類しました。これには当然、批判が起こりました。2014 年 11 月に、 Tumblr ユーザーの Sugar-And-Spite によって「Aegosexual」という呼び方が作成されました。意味はどちらもほとんど同じですが「Autochorisexual」の差別の歴史的な意味合いを避けるため、もしくは発音のしやすさのために「Aegosexual」という用語が使われます。anegosexual(アネゴセクシュアル)とも言われることもあります。

※以上はLGBTA Wiki からの翻訳です。 

lgbta.wikia.org

 

 夢小説やBL好きのいわゆる「女オタク」の集まりに参加したことがあります。そこで交わされた会話の中に、やっぱり「オタクの友だち」じゃないとわかりあえないものがある、「一般の友人」とは話せないことがあるよね、というのがありました。

 オタク同士の安心感という感覚は、単純に同じジャンル仲間である所属意識とか推しのキャラクターについて気兼ねなく話せるとか、それらだけではないと思います。そこには「一般」でない「逸脱した」自分たちへの自虐と優越があります。ときに、カフェや電車内で推しの話やカップリングの話を大っぴらにするオタクはマナー違反とみなされます。でも、オタク同士の逸脱の場ではほとんどポルノみたいなBLアニメをみんなで鑑賞するし、二次元キャラクターと自分の恋愛生活を現実の恋人のように語ることも肯定してもらえるし、画面に映る声優やアイドルに「エロい!」と直球に叫ぶことができるし、自カプの初夜や死に方について議論することも、抜けるおすすめBLのリンクを送り合うこともできます。

 そこには、ヘテロノーマティヴィティやamatonormativity(恋愛伴侶規範) から自分を切り離すことが許され、一時的に解放される安心感があるのかもしれません。とくに、わざわざ「女」オタクと有徴化されるわたしたちが、だれにも消費されず消費する側になれるクローズドなのかもしれません。そのわりに擦り切れていく感じがするのはなぜなんだろう。

 

queer platonic relationship

 ロマンスとセックスのない親密な関係。つまりあの場には、それがあったのではないかと思うのです。BLや夢ジャンルを「女性向け」と言いますが、これは誰が想定されているのでしょうか。BLや夢が好きなのはシスヘテロの女性だけではないはずです。無自覚にせよ自覚的にせよ、オタクのわたしたちがAegosexual的な何かを持っているとすれば、ある意味であの安心感はクィアプラトニックな繋がりのことでもあったのかもしれないと思います。でも連帯というほどの強さではなかった。かつて語り合った友だちとは今でもLINEは繋がっていますが、たぶんもう二度と会わない気がするしわたしからは誘わない気がするし、案外ブロックされていたりするのかもしれません。女オタクみんながフェミニズムに関心があるわけではないし、そもそも既に異性と結婚していたりするし、目の前の友だちがセクシュアルマイノリティだとは思っていないだろうし、結構アウトな発言で傷つけたり傷つけられたりするので……。固定だのリバだので気まずくなるから、ジャンル引っ越しするからとかそういうこと以上に、「パッと見ではオタクとわからないオタク」「擬態の上手いオタク」がもてはやされる風潮のある場で「イベントで身だしなみに気を遣わないブスのオタクはありえない」みたいな話題や、「本出そうよ!」とか「二次創作したら?」とか「ガチャでウン万円爆死した」とか「ランダムグッズ死ぬほど買って推し以外いらないから余ったやつあげるね」が出るときに感じる類の気まずさのある…もうオタクって疲れてしまって言いたくなくなる……

 

fictosexualとはどうちがうの?

 フィクトセクシュアルは、架空の人物/登場人物にのみ性的魅力を感じる性的指向です。フィクトセクシュアリティは、架空のキャラクターとのセックスに対する限定的な欲求を伴うため、アエゴセクシュアルとは異なります。一方、エーセクシュアリティは覚醒のパターンのことです。

www.reddit.com

 

 

 フィクトセクシュアルは性的魅力(Sexual attraction)であり性的指向Sexual orientation)であるのに対して、アエゴセクシュアルは覚醒(arousal)です。

 フィクトセクシュアルは、自分が特定の誰とセックスしたい欲望を持ち、その指向が二次元のキャラクターなどに向かいます。

 アエゴセクシュアルは、自分が一時的に興奮・反応するだけです。どきどきしたり性器が反応したり、セックスやマスターベーションなどの性的な活動をしたいという一般的な衝動を覚醒と指します。

 

 性的魅力と覚醒のちがいなど、このあたりはわたしも調べていてよくわからなかったので、また次回の記事で整理しようと思います。

 ちなみに、GoogleやtumblerでAceやAegosexualを検索すると、いろんな英語記事を読むことができるのでおすすめです。ありがたいことにGoogleの翻訳機能を使えばかんたんに読むことができるので、英語が苦手なわたしでも大意は把握できます。

 

オタクとクィア

 いつも何かの話をするとき、わたしの話をすることになるのですが、それはわたしがわたしについて書かなければいけないと思っているからで、つまり今回もわたしの話からになります。

 

自分を何と呼べばいいの

 わたしはBLが好きなBL愛好者です。今風により詳しく説明するならきっとShipperが近いけど、このアルファベットの呼称にいまいちしっくりこなかったので、Shipperとは表記していません。「Shipper」は作品の多様な登場人物の中で「二人以上の特別な関係性」によってそのカップリングを好きになるオタクやファンであることを表すのにはとてもよく思えます。BLに限らずGLやHLでも恋愛でも恋愛じゃなくてもセックスをしてもしなくてもプラトニックでもブロマンスでもそれ以外でも。ビビッときたならカプで考えたい、掛け算をしたい、二人の関係性を追求したい。Shipperという言葉はそういう気持ちを表現させてくれるし、クィアでエンパワーメントな力を持っている名前だと思います。

 でも結局、Shipperと言いながらオタクはBLばかり見ている面があるのかもしれないと感じて、元気をなくしています。クィアLGBT作品で盛り上がっていても、それらの多くはシスジェンダーのゲイが主役です。美しい容姿、美しい恋愛、美しい物語で生きる男性同士。それを外から消費する人々。フィクションは人生を豊かにしてくれるしフィクションでしか感じられない救いがある、それはそうだけど都合のいいところだけ楽しむのは無責任だと思う。この国では、お互いに助け合って生きていきたくてもそれが同性同士であれば法的な保障や生活の選択肢すら奪われているし、セクシュアリティホモフォビアに悩んでいるのはフィクションの登場人物だけではないのに。

 とはいえ、わたしも少し前まではShipperと名乗っていました。でも、HLそのものというよりHLにまつわる異性愛主義や性規範に傷つくことが多いのでHLはほとんど見ないし、GLや百合を見るときの気持ちはBLを見るときの気持ちとは明らかにちがう。BLはひとまずは安心な場所だけど、その物語にわたしはいない。わたしは男でもないし少年でもない。わたしはどこにいて、わたしのための物語はどこにあるんだろう。たとえば、女と女の話で戦いがあってかわいくてかっこよくて勇気づけられて、女性の身体が消費されてなくて恋愛がテーマじゃなくてハッピーな物語とか。「シーラとプリンセスの戦士」は最近すごく観てよかったアニメ作品です。

 非公式にカプらせる(Shippingする)二次創作、もとからBLがメインである(Shippingされている)商業BL、受け/攻め文化や「過激な」ポルノ表現、男と男の関係にとことんこだわりたい、百合やGLとは区別したい、などその他もろもろ、「Shipper」という言葉では背負いきれないアイデンティティがあります。BLが好きなんだからBL愛好者ってゆえばいいじゃん。というか、わざわざ表記しなくてよくない?
BLや夢が好きなことの表明は自分を知ってもらいたいから、同じ趣味の人と繋がりたいからという意味だけじゃなくて「苦手な人は避けてください」「BLや夢が好きなのはふつうじゃない」という自虐と抑圧の意味がある。そんな意味なら表記なんていらないし、わざわざ言ってアピールしなくてもいいし、そういうのは疲れてしまった。BLが好きだとは言い続けるけど。

 

 まだ話すの?話すよ。

 それで今思っているのは、BL=女性向けというジャンル分けについて。

 BLが好きなのは女性だけじゃない。BL好きの男性もいるだろうし、Xジェンダーアセクシュアルだっている。そういうBL好きの中の多様性だけじゃなくて、BLはなぜわざわざこんなに「女性向け」を強調されないといけないんだろう。間違ってもBLが「女性向けを越えて男性向けや一般向けでも通用する」とか「性別を超えた普遍的な愛」だとか言いたいわけじゃない。BLを読むのはもっといろんな人がいていい。もちろん、BL文化を担ってきた多くが女性というのは忘れてはいけない歴史だけど、BLはもっと開かれていい。もっと言えば百合が好きな女もいるしBLが好きなレズビアンだっているよ。ジャンルって何なんだろう。夢=乙女向けもそう。すぐれた漫画の書評で少女漫画が無視されるみたいに、「女性向け」は低俗でくだらないっていう勝手な評価で分けられるジャンルなんていらないし、そんなのはわたし向けじゃないと思う。非対称だし、差別的だし、こんなにもBLや百合を見るときにジェンダーセクシュアリティに揺さぶられるわたしって何?わたしもなんにもかんがえずふつうに楽しみたいのに。

 

 

『小林先輩は女の子でシたい』感想 女体化してない女体化BL

 

うり,2021,『小林先輩は女の子でシたい』,海王社.

www.gushnet.jp

 

 SNSでもかなりバズっていた漫画です。

 実は私はうり先生のファンで同人時代から追いかけているので感無量というか、やっぱり有名になっちゃったな~ッ、そりゃこんな大天才をBL界が放っておくはずはないもんな……!!!(古参アピールだ~ッ)これからも応援します!!!

 といいつつも、うり先生の商業作品はデビュー作の『悪魔はファンシーアレルギー』と同時収録の「デイドリーム・ララバイ」しかまだ読めていません。『悪魔はファンシーアレルギー』はバイコーンの受け・ルイの登場シーンと、初デート回の遊園地(特に観覧車!)の描き込みが素晴らしくて……! レトロな絵柄も魅力的でギャグも笑えてエロもエロくて最後はしっかりBLになるし、全ページに付箋を貼りたくなるくらい漫画が面白いし上手いんですよね……読んでてストレスのない構図やコマ割りもそうですし、フォントの使い方と効果音にかなりこだわりを感じます。

 

あらすじ

 イケメンバーテンダー(←自称)の小林文博は、朝起きたら何故か女の体になっていた…! 状況はサッパリ飲み込めないが、とりあえずおめかしして、バイト先の後輩・高津の元へ向かう。目的はただひとつ――女の体で抱かれるため…!!!!! しかし高津の衝撃告白により想定外の問題発生…!!?

 

 

感想・レビュー(ネタバレ注意です)

 

 女体化!? と敬遠されるかもしれないのですが、厳密には女体化BLではありません。

 催眠によって、小林が自分の身体が女性になっていると思い込んでいる状態(もしくは、小林先輩が女性に見えてしまう状態)です。漫画の画面上で女体化してはいるんですが、あくまでそれはキャラクターにかけられた催眠による洗脳が見せるイメージであって、実際は男性の身体のまま……という、説明しててもなんのこっちゃらとこんがらがりますが、そのカオスが漫画でスムーズに表現されているのですごいです。

 みずから催眠にかかりにいく小林の中で、女性の身体の自分/男性の身体の自分があいまいになっていくという展開は、『デイドリーム・ララバイ』にも似ているかもしれません。『デイドリーム・ララバイ』では、「妄想癖のある攻めが受けとのセックスを妄想しすぎて夢か現実かわからなくなってしまう」という設定が活かされていました。コマ割りや台詞をうまく利用して、妄想によって境が曖昧になる夢/現実をうまくスイッチさせていて、すげ~!おもしれ~!となったのを覚えています。しかし、「セックスしていても夢か現実かわからない」「本当の自分と相手がわからなくなってしまう」というホラー要素のために「曖昧さ」が必要だった『デイドリーム・ララバイ』に対して、『小林先輩は女の子でシたい』はむしろスイッチのメリハリが意識される作品だったのではないでしょうか。

 

女体化してない女体化BL

 (催眠によって)女体化した(してないんですが)小林は、「女の方が男より10倍気持ちいいらしい」「膣イキ連続アクメを体験したい」という動機で、職場の後輩・高津のもとへ飛び込みます。しかも「後腐れなさそう」という理由で(最低だよ……)

 「女の身体」をもって肉体関係を迫るも(いや男の身体のままなんですが)、しかし高津は「ごめん 俺ゲイや」とすげなく断ります。「もし男に戻ったら抱きますよ」と譲歩(?)する高津に、「俺は女の子が好きやから」と小林は断りますが「前立腺でイくのは射精の100倍気持ちいいらしい」と言われて揺らぎます。女体をめぐるセックスファンタジーを、BLというセックスファンタジーの世界にカジュアルに持ち込んで、ドーンとぶつけたかんじですね。

 ここで小林は「おんなじことなんやろか? いやでも女で抱かれんのと男で抱かれんのではやっぱ違う気が…」と悩みつつ、高津に男の身体で抱かれることを「予約」します。

 このあとあっさり催眠術はとけるのですが、小林は高津を意識し始めます。ヘテロ男性向けのアダルトビデオを鑑賞し、性的な反応を確認して「やっぱり女の子が好き」であることを確認します。にもかかわらず、今度は自分から頼み込んで催眠をかけてもらい、女体化します(実際はしてないのですが)

 そして高津と念願の女体化セックスをするのですが、実際に女性になっているわけではないのに、想像で女性としての感覚を得ることに成功して小林は大喜びです。なんだか高津のことがかっこよく見えてしまう小林は「女目線になっとるからかわからんけど」と処理してしまうのですが、女性だからといって親しい男性すべてがかっこよく見えるわけもなく、小林自身が高津をかっこいいと感じているからこそ、「フツーにかっこええし」「声もええんよな」と思うのでしょう。

 対して高津が「女の子みたいな声だすんですね」と指摘する通り、女体化している小林は、仕草や振る舞いも女性化します。小林の中では、女体化と同時に、女性ジェンダー化が起こっているのです。しかし、実際の小林の身体は男性のままです。男性の身体のまま、女性として振舞う構図になっていて、意識的かはわかりませんがセックスとジェンダーが切り分けられた漫画とも言えるのかもしれません。女性の身体を持っているからといって女性らしい服装を好んだり、女性らしい振る舞いをしたりするわけではありません。「女の子みたいな声」や「女の子みたいな仕草」は、あくまで小林の持つ女性イメージであり、あるいは社会の中で小林が「男性とはこういうものだ」「女性とはこういうものだ」と植え付けられてきたジェンダー二元論的な価値観を男の身体のまま、(催眠で一時的に「女体化」することによって)体現したものでしょう。

 催眠状態での女体化セックスを繰り返すうち、小林は「心まで女の子になってしまうのではないか」と悩み、男の心を取り戻そうとします。具体的には合コンに参加して女性の恋人探しをするのですが、「女体化した自分の方がかわいい」といまいち楽しめないままお開きとなります。ある意味、女体化した小林は「俺の考える最強にカワイイ女の子」という理想像なのかもしれません。そのことは、男性として初めてセックスするとき、高津が小林に言う「いつものAVみたいで演技くさいのより断然いい」という台詞にもあらわれていると思います。おっぱいも大きくて顔もかわいくてAVみたいに喘いで気持ちよくなれる「女性」なんてこの世界のどこにもいなかったということなのかもしれません。ちなみに、この男性でのセックスのときも小林は女体化時と同じく高津の声に反応しており、うり先生の伏線回収さすがやな……と思わず関西人じゃなくても関西弁になってしまいます。

 「女性の身体」は、男性によってまなざされ消費されてきましたし、それは今でもそうです。この作品は、「女性の身体」に向けられる性的ファンタジーや暴力を強く否定しているわけではありませんし、むしろギャグテイストで「膣イキ連続アクメ」とか言っています。一方で「女性の身体へのまなざし」を「女体化してない女体化」によってBLに利用したというねじれがあると思います(女体化BL全般に言えることかもしれませんが)しかも女体化した小林先輩めちゃかわいいしエロいし……BL消費しながら女体を消費してる自分がいる。女体化して女の体を使うのはなんでなんだろう。こういうねじれがあちこちにあるから、私はBLを読むのがやめられないです。普段の私は女体化BLあんまり読まないんですが……

 

 

「女の身体で抱かれたい」から「女扱いされたい」へ

 「女の身体で抱かれたい」と言いまくっていた小林ですが(ここだけ書くと小林がめっちゃ無責任に思えますね)(実際そうなんですが)高津と付き合い始めると、今度は「女として扱われたい」と言い出します(ウ~ン……)だんだん小林の本当の欲望が明らかになっていくかんじですね。

 今度は高津に「小林のことが女の子に見える催眠」をかけます。「女子はなー デートは強気でリードされたいもんやねん」と持論を展開しますが、ゲイの高津は女の子の小林に距離を取ります。思っていたような彼女扱いをしてもらえず、小林はごねます。「女として扱われたい」とは、どういうことなんでしょうか。

 小林は「女性になりたい」わけではありません。「強気でリードされたいて言うてたやん」「それは女の時だけでええねん」「男だと恥ずかしいんや」「当たり前やろ」「かわええなあ」という会話から、小林が「女として扱われたい」のではなく、「高津に強引にリードしてもらいたい」「甘やかしてもらいたい」のだということがわかります。どうして小林は、強引にリードされると恥ずかしいのでしょうか?どうして、女では恥ずかしくなかったことが、男になると恥ずかしくなってしまうのでしょうか。「男で抱かれるのも女で抱かれるのもおんなじことなんやろか?」と悩んでましたが、小林にとってはあまり同じではなかったみたいですね。おそらく高津にとってもそうでしょう。

 こういうジェンダーロールに縛られた小林というキャラクターが(小林はめちゃくちゃ強固なジェンダー規範意識を持っているわけではなく一般的な方でしょうけれど、でもだからこそという面があると思います)「催眠による女体化」という境界を何度もくぐることで、自分の現実のジェンダーセクシュアリティを問い直しながら広げていく様子は、「自分の性癖がよおわからんくなってきたわ」という台詞にも表れていると思います。小林も高津も「強引にリードしてもらいたい」という欲望を「M」という性癖として捉えているのですが、ジェンダー・バイナリを問いかけ、「男らしさ」の境界が攪乱されていく過程とともに、BLの成立があるのではないかというふうにも思います。

 ファンとしての色眼鏡もありますがめちゃくちゃうまいバランス感覚で描かれた作品だと思っていて、たとえば女体化した小林が襲い受けではなくひたすら受動的な役割を与えられていたり、高津が男として小林に「女の悦び」を教え込んだりしていたらかなりアウトだったと思います。「ほんとうに女になりたいわけではないが、女性として扱われたい」という願望も、現実のまだまだ男性中心主義な社会において性差別が起こっていることや「レディファーストや女性専用車両があって女はいろいろ得してていいよな」みたいな乱暴な意見や、「本当の女性の安全を侵そうとしているので危険」みたいなトランス排除があることを考えるとかなりヒヤヒヤするところもありました。でもそういうギリギリのところでエンタメ作品として成立しているのは、関西弁とか、漫画のセンスとか、BLとしての面白さがちゃんとあるところとか……筆力のなせる技なのではないでしょうか。

 ほんとに「ここは女体化の小林を描いて、こっちのコマは男の小林を描こう」とかどうやって決めて書いたんだろ~って思うとすげ~ってなるので、おすすめです!攻めと受けが対照になってるコマとかあって、何回も読み返してしまうので、おすすめです!

 

 

文学オタクだった 

 高校生だったころ、私は文学オタクだった。少なくともそういう自覚だった。

 古典も近代文学現代文学も、日本の作品も海外の作品も、詩でも小説でもエッセイでも、面白そうだと思ったらすぐ手に取って、一日で読み終えてしまっていた。

 中でも好きだったのは日本の近代文学だった。私がそのときまさに感じていたような孤独がすでに文豪たちによって書かれていることは私を勇気づけた。彼らの人生の苦悩に共感した。雅文体も言文一致体も言葉選びのひとつひとつまで、現代文学よりもはるかに洗練されているように見えていた。純文学こそ本当の文学なんだ!とマジで信じていた。文学を読むことは私にとって救いだった。少なくともそのときはそう思っていた。

 ちょうどそのころはTwitterがあって、同じような文学ファンの人たちから情報をたくさん得ることができた。特定の文豪を推しているような人もいた。「推し」の白黒のおじさんの写真に「かわいい」と言っているアカウントがあってびっくりした。文豪のはちゃめちゃなエピソードを面白おかしくネタにして、文豪の恋文のここが萌えるとか聖地巡礼だとか文豪BLだとかそういう楽しみ方がインターネットにはあった。今でもあるんだろう。TLに流れてくるさまざまな情報を受動的に眺めていた私は、インターネットの人々をまねるようにして「文学オタク」の自覚を深めていく。国語便覧はネタの宝庫だ。眺めているだけで楽しいし、図書館に行けば同じような本好きの友達と文学知識()を語り合う。

 つまり私は、中学の時から鴎外や漱石菊池寛の分厚い全集を片っ端から読んでいてぺらぺらと蘊蓄を喋れる「文学オタク」な自分のことをすごいと思っていた。本を読まない人には見えない世界が見えていると思っていた。電車で芥川を読んでいればお年寄りからは褒められるし、ゲームにはいい顔をしない親も文学なら何も言ってこない。教師からも国語だけ妙に点数が取れる生徒として認識されて、友だちからも「すごーい。よく知ってるね」と言われた。今ならその友だちの言葉にかすかな侮蔑と嘲笑があったとわかる気がする、そんなので自分を保っていた。

 ただ、私にはどうしても読めない小説があった。恋愛小説や性愛小説。BLやTL作品のように初めから「ポルノ」だとわかっているものなら読める。

 けれども、きれいな「純文学」の中に含まれる「恋愛・性愛的な」もっと詳しく言えば「異性愛的な」行為の描写や感情の働きには、ほとんど心が動かなかった。なぜ登場人物が「そう」なるのか、さっぱりわからない。どうして親しい人間同士の間で「それ」が起こるのか、なぜ「それ」が関係において最重要の事項のように語られるのか。なぜ何気ない日常のシーンで「そういう」視線が描かれ、あるいは隠されるのか。私にはこんなに何も起こらないのに。本当のように書かれた「それ」が、なぜ孤独や寂寥と同じように私には共感できないのかわからなくて、私は恋愛小説を嫌悪した。

 今でこそ私は「アセクシュアル」や「アロマンティック」というセクシュアリティで説明することができるようになった。それでもひとつの言葉で全部を説明することはできないから、「レズビアン」「リスセクシュアル」「フィクトセクシュアル」もしかすると「性嫌悪」「ミソジニー」「ミサンドリー」などという概念でも説明するかもしれない。私は、私のことについて、うまくは説明できないが、なんとか説明しようとすることはできる。説明や経験によって証明しなくてもいいことも知っている。

 

 高校のときにはほかに、自然主義と言われているらしい作品をいくつも読んだ。ゾラの翻訳小説は好きだった。写実的でリアルな人生というかんじがした。でも、花袋の『蒲団』はよくわからなかった。露骨と聞いていたけど、どこが露骨なのかわからなかった。露骨ってあけすけで赤裸々とゆうことだと思うのだけれど、あの程度の赤裸々はみんな書いてることだった。当時にしてみれば「公の場で性欲を語った!」みたいな衝撃があったのかもしれないけれど、性が商品化され大量に消費されている資本主義の時代にネットで"過激な"BLや夢小説に親しみながらそこそこバリバリ生きている少女だった私はその状況に慣れつつあったから『蒲団』は物足りなかった。がっかりすらした。多分、もうちょっとポルノっぽい描写を期待していたのかもしれない。

 Twitterでは「『蒲団』の花袋のセクハラおじさんっぷり」は「文豪の面白ヤバエピソード」として流れてきたので、そういうものかと思って乗ろうとした(今にして思えば、何に乗ろうとしていたのだろうと思う)

 できなかった。私は、もう名前も覚えていないが「何十歳も年の離れた師匠の男性に恋心を寄せられる女」を自分と重ねてしまった。端的に言えば『蒲団』はキモかった。そのときはこう思った。私は、男性の性欲を嫌悪しているのだと。なんで男は女を捻じ曲げて書くことばかりするのだろう、身勝手に理想を押し付けて不都合になったら捨てる。思えば谷崎も鴎外も紅葉もそうだった。というふうに。怒ったし、むかついたし、キショいし、気づいてしまった。私がこれまで魂を預けてきた「近代文学」に「私はいない」ことに。私が共感し信頼し仲間だと思っていた奴らは私とは違った。彼らの作品に現れるうじうじした自我は、ある一面では私だったけれど、他の面では何もかも生きる苦しみすら共有されていなかった。私小説はそのことを突きつけてきた。高校生だった私はどうしても、私は「何十歳も年の離れた師匠の男性に恋心を寄せられる女」側なのだと、思い込んでしまった。

 今なら、もう少し詳しく説明できる。日本の自然主義は事実や体験に沿った「あるがまま」を書こうとしたかもしれないけど、表象は必ずしも現実を掬い取らない。「あるがまま」の中に女は入っていなかったこと。現実の女を書くつもりはおそらくなかったのであって、『蒲団』の女は「あるがまま」の中の幻想に過ぎないこと。「幻想の女」が必要だったという事実こそが「あるがまま」なのだということ。なぜ「幻想の女」が必要だったのだろうということ。なぜこの「あるがまま」が「性欲」と捉えられてしまうのか。本当にその欲望は「恋愛感情」や「性欲」だったのか。恋愛や性欲という言葉で覆われてしまっているけれど、もっと別の欲望ではなかったのか。「幻想の女」と「性欲」を作り出す構造について。表象する/される限り「幻想」から逃れられないのではないか。私もどこかで、「幻想の女」を作り出しているのかもしれないこと

 

 どうであれ、とにかく私が一生懸命読んでいた「文学」は私のための物語じゃなかったことに気づいてしまった。

 それでも例外もあった。『たけくらべ』はフェミニズム的な読み方のできる作品だと今でも思っているけど、何かの解説で「たけくらべ論争」について知ってほんとうにげんなりした。なんにもわかってない。女のことについて、どんなに一葉が気を張って用心深く周到に丁寧に練って批判を織り込んで熱意を込めて冷静に鋭く鋭すぎないように言葉を選んで書いていたとしても、議論されるのは美登利が処女か否か初潮を迎えてるか否かってどういうことなんだろう。なんにもわかってないじゃん。ほんとうになんにもわかってない。本当に、この作品について、今までこんなことしか分析されてこなかったのか? と思った。信如とのすれ違いの淡い恋愛が美登利を少女から女性へ成長させた、みたいなのを読むたびに、本当に同じ作品を読んだのだろうか? と頭を捻ってしまうくらい。わかってない。

 

 それから私は本谷有希子山本文緒津村記久子絲山秋子金原ひとみを読んで精神を保つようになる。大学に入るとほとんど小説は読まなくなってしまった。(というか読めないのが増えてしまった。最近は韓国文学がきっかけでちゃんと本の選び方を覚えてまた読むようになった)

 今でも、本屋や図書館で適当に本を手に取れば、ほとんどの場合――それが恋愛小説ではないとしても――恋愛や性愛にぶちあたる。何もかもわからない。わかるような気もする。BLドラマや百合漫画のような、同性愛に近いものを扱った作品に触れてもそうだ。前提として恋愛と性愛があることは、ときに暴力的だと思う。小説創作のワークショップに参加したとき、講師に恋愛の素晴らしさを語られて疲弊した上でさらに自分の体験をもとに恋愛小説を書くというお題が出されたのだけど、(もう一つは、自分の名前をネタに私小説を書けみたいなお題でどちらも最悪だった)、ただでさえあやふやなセクシュアリティアイデンティティと恋愛へのわからなさその他もろもろを小説化するなんて、ましてやほぼ初対面の多数の人間の前で自分の思想が俎上に載せられることに耐えられなくて、それきりその教室には行かなかった。

  自ら苦しみたくない。自傷として読んでしまう自分がいる。だから文学を――文学に限らずだけど――もう昔のように無邪気には読めなくなってしまった。ということです。

凪良ゆう『全ての恋は病から』 感想

 

凪良ゆう,2010『全ての恋は病から』白泉社.

www.hakusensha.co.jp

 

あらすじ

大学生の夏市は、いつも人肌に触れてないとダメな謎の持病の持ち主。その隣に越してきた先輩・椎名はクールでモテモテだが、ひどく汚れた部屋に住む片づけられない男。そんな2人が契約を結ぶことに…(公式より)

 

  • 要素……美人受け、年下攻め
  • 当て馬キャラが出てくる

 

 

感想・レビュー(ネタバレ注意)

 

 凪良ゆうの作品といえば『美しい彼』シリーズですが、この『全ての恋は病から』も大好きな作品です。

 「24時間・365日人肌に触れていたい病×片づけられない症候群」というギャグみたいな設定なのですが、事態はかなり深刻です。

 はじめは犬猿の仲の先輩・後輩として始まった二人ですが、実は「病」を抱えるまでにはそれぞれバックグラウンドがあるのです。

 ゲイの夏市は、四人兄弟の長男で、幼いころから三つ子の弟たちの世話をしてきました。大きくなった弟たちが離れていき、夏市は「手が空っぽで寂しい!」と気がつきます。しかし、人肌を求めるも、触りたいのは男のみ。あやうく同級生を襲いそうになる欲求を、父親が買ってきてくれた巨大なぬいぐるみでごまかす日々です。恋人ができても、スキンシップが過剰すぎてフラれるという……

 対して、クールな美人の椎名は見た目に反して汚部屋の住人です。礼儀に厳しい祖母に育てられた過去があり、食べ物を好き嫌いしたりきちんと片づけをしなかったりすると竹定規で叩かれるなど、とにかく厳しいしつけを受けてきました。「自堕落な生活がしたい」という欲求がどんどん膨らみ、一人暮らしで解放されたパターンです。

 

 アパートの隣同士に住む2人は利害の一致から、片づけとスキンシップを交換します。毎日、部屋を行き来してお互いに契約を果たすうち、紆余曲折あってお互いが大切な存在だと気づくのです。

 この小説の好きなところは、それぞれの「病」をお互いが受け入れ補い合って、ケアし合っていくところです。契約から始まる関係ですが、病気として矯正させられたり無理に克服させられたりすることはありません。それぞれの過去や事情を話し合った上で、じゃあこうすればもっと楽になるよね、俺の方が料理は得意だから、その代わりもっと……というふうに、年下だけどお兄ちゃん気質の夏市がわがままな椎名の面倒を見る様子は、読んでいて安心します。その分、夏市は椎名を甘やかしたりかわいがったり、モフモフ(スキンシップのことです)を求めたりするのですが、椎名もそれにうまく応えていてかわいいです。

 コメディタッチではありますが、キャラクターの生育環境やストーリーの展開がよく練られているからこそ、さくさく楽しく読めるのだと思います。

 構成や文体やサブキャラクターとのかかわりなど、もう「凪良ゆう小説うますぎ」しか言えなくなってしまうんですが、小説が上手いことはエロシーンに凝縮されていると思います。心情描写もだし、セリフや喘ぎ声もだし、字の文の言葉選びもだし、スピード感があるのに丁寧というか、今どんなふうになってるか情景としてちゃんと頭に浮かぶのです。ちょっとまって今これ両足どうなってるん?とか煩わされることもなく、BLに没入して読める安心感があります。

 シリアスな凪良ゆうを読んでる人でも、凪良ゆうはほんとになんでも書けるんだ…ともっとファンになってしまうんではないでしょうか。読んでよかった~!ってなる作品です。