『悪人の躾け方』感想

 

先月、こちらの漫画を読みました!

ダヨオ先生の作品です♡

 

あらすじ

ガタイよし顔よし余裕あり清掃員スパダリ年下攻め×元バリタチ悪態おじさん社長受け

 

もはや攻め受け属性を並べただけでもう展開がなんとなくわかってしまう(雨津木サン……)

 

『ロンリープレイグラウンド』という漫画が先にあり、そのスピンオフです。前日譚は未読なのですが、雨津木はバリタチで若い男の子をひっかけてはいじめ倒し、とにかく悪人だったようです。しかしロンリープレイグラウンドにて三角関係に終止符が打たれるとともに妻に浮気もバレ離婚され、年下の清掃員に今度は自分がハメられるとゆう、なんとも自業自得な状況です。タチを主張する男ほど受けなのは言わずもがな。BLにおいて自業自得とはたいてい受けが自分で自分の墓穴をそうと気づかず掘っていき業をケツで解消することですので、自業自得があればあるほどよいのですが、それはおいといて……(ちなみに攻めが自業自得する場合は受けに逃げられるときです)

 

感想(ネタバレ注意)

年上のおじさんが年下の若造に振り回され甘やかされ、いてこまされて余裕なくなってるだけでももう面白いのですが。

 

 

タチにこだわる理由

20年バリタチでやってきたという雨津木。針間に抱かれたあとも「抱く側」に戻ろうと足掻きます。彼はなぜバリタチにこだわるのか。

社長として地位も名誉もお金も手に入れている雨津木は、大企業を継ぐべく育てられた男です。父親には逆らえず、男らしく強くあれと言い聞かされてきました。

そんな雨津木は自らが同性愛者であること(そしておそらくウケとして男と性的な関係を結びたいという欲望)を自覚します。大学卒業後、身体だけの関係を求めて出会いの場を彷徨うのですが、父親にその事実を知られてしまいます。みっともない、男らしくないーーそう怒鳴られたことで、雨津木は自らのセクシュアリティを隠し、会社に相応しい後継者として、父親の望む姿で生きるようになります。

そして父親が死んだ後は箍が外れたように男性と関係を持つようになりました。けれど「男らしさ」の呪縛に絡みつかれた雨津木には、「バリタチ」として支配的に振る舞うしか自分を守る術がなかった(悪人になるしかなかった)のでした。

 

 

それの何が悪いんですか?

「雨津木さんのような偉い人が俺みたいな年下にこうやって世話される。それの何が悪いんですか」

好きな男をでろでろに甘やかす年下攻めのセリフなのですが、これは若い頃の雨津木が父親に言えずに飲み込んだ言葉でもあります。

父親の夢にうなされたり、悪態をついたりする雨津木ですが、身分も下、年齢も下、なのに態度と図体はデカい男に「可愛いですね」と尽くされてみるみるほだされていきます。

今までは年下の華奢な男性に支配的なセックスばかりしていたのが、年下の自分より大きな男に受け身で愛されることに安心と快楽を感じるようになります。

このことは、有害な男らしさの呪いを受けてきた雨津木という一人の男が、別の男との出会いによって自分の呪いを解く解放の物語でもあるのです。

この作品のすごいところは、雨津木の解放だけでなく、針間の解放についてもきちんとフォーカスして、そしてそのことが二人の恋愛の基礎になっているところです。

 

 

針間が雨津木にこだわる理由

それは、10年前の雨津木の父親の葬式がきっかけでした。短い数コマの中で、針間の父親も自分の妻や子どもに対して支配的にふるまう家父長制的な男性であることが示されています。そんな父親にため息を吐いていたところ、高校生の針間は喪主の雨津木に出会います。父親が亡くなったというのに涙ひとつ流さず、喪主の控え室でひとり黙々と寿司を食い続ける美しい男に。

針間も雨津木も「父親」「後継ぎ」という枷を嵌められていました。あのクソ親父の跡継ぎになんかなってやるものか、と毒づく高校生の針間の目には、似た境遇の年上の男はどう映ったのでしょうか。同情?寂しそう?仲間意識?

「寿司食うか?旨いぞ」

綺麗なお兄さんが目の前で飯に誘ってくれている、ということ以上の意味が針間にとってはあったのだと思います。

だからこそ針間は大手食品会社の後継者の椅子を蹴って、家出したのです。雨津木と出会うために。

 
悪人って何?

何かが悪とされるとき、それは本当に悪なのだろうか。この問いの答えは、上から見れば悪でも下から見れば悪じゃない、とかそういうことではありません。雨津木がこれまで他人を傷つけたり不倫をしてきたりしたことは明確に悪です。

しかし、雨津木がみっともないこと、男らしくないこと、男が好きなことーーそれらを悪と決めているのは、誰なんでしょうか? 社会であり、父親であり、家であり、雨津木自身です。

悪だと思い込んでいるものは、本当は権力によって悪だということにされているだけなのではないでしょうか。

「人が見てますよ」

「それの何が悪い」

二人の手に光るペアリングと朝のカフェでのキスは希望に満ちていて、少し泣きそうになりました。家を捨てた針間が始めたい事業がハウスキーパー代行業なのもなんかいいですよね。資本主義の悪からは逃れられてないですが……。

 

 

BLが描く男らしさの抑圧からの解放

男同士の物語で、男が有害な男らしさやホモフォビアの抑圧から解放される物語を読む私は男性ではありません。それでも「抑圧からの解放」というテーマに希望を感じてしまうのは、もしかすると「女性ジェンダーであること」「女性身体であること」「ヘテロセクシュアルではないこと」を引き受けようとするときに刺さってくる不平等や生きづらさがあるせいかもしれません。だったら女性が抑圧をふっとばす話を読めばいいのでは?と思うし、もちろんそうした物語も必要なのですが……自分のジェンダーから離れたい、男性という優位なアイデンティティを持つキャラクターが椅子から降りるところや高い下駄を脱ぐところが見たいのかもしれません。クィアになる、みたいな?そして楽になってる、ハッピーエンドになってるところを見て私も楽になった気分になるへんなカタルシス。でも大体はBLの男性キャラクターも別にそこまで降りても脱いでもいないと思います。

それに、女性が主人公の物語を読むとき、どうしてもそのキャラクターが「まなざされるもの」として描かれていることに抵抗があります。男性社会的な視線で身体や性格がデザインされ、現実の女性とはかけ離れたキャラクターになることに居心地の悪さを感じます。女性同士の恋愛を描いた作品でも同じです。そうした視線をなるべくなくそうとする映画やアニメはたしかに増えてきてはいて勇気づけられながらも、BLが手放せません。自分はなぜBLを読むのか?なんでこんなに好きなのか?というのが私のひとつの問いなのですが、答えはうまく言えないままです。ひとつ言うなら、ぐちゃぐちゃなところが好きなのです。

 

『悪人の躾け方』は雨津木と針間の絡みが濃厚なのもよかったです。エロくて美しくて……上でごちゃごちゃ書いてますが、ポルノ!萌え!エロ!なのもBLの一面で、それは切り離せないものなんですよね。

エロいところも含めていろんな人に読んで欲しい〜と思いました。