文学オタクだった 

 高校生だったころ、私は文学オタクだった。少なくともそういう自覚だった。

 古典も近代文学現代文学も、日本の作品も海外の作品も、詩でも小説でもエッセイでも、面白そうだと思ったらすぐ手に取って、一日で読み終えてしまっていた。

 中でも好きだったのは日本の近代文学だった。私がそのときまさに感じていたような孤独がすでに文豪たちによって書かれていることは私を勇気づけた。彼らの人生の苦悩に共感した。雅文体も言文一致体も言葉選びのひとつひとつまで、現代文学よりもはるかに洗練されているように見えていた。純文学こそ本当の文学なんだ!とマジで信じていた。文学を読むことは私にとって救いだった。少なくともそのときはそう思っていた。

 ちょうどそのころはTwitterがあって、同じような文学ファンの人たちから情報をたくさん得ることができた。特定の文豪を推しているような人もいた。「推し」の白黒のおじさんの写真に「かわいい」と言っているアカウントがあってびっくりした。文豪のはちゃめちゃなエピソードを面白おかしくネタにして、文豪の恋文のここが萌えるとか聖地巡礼だとか文豪BLだとかそういう楽しみ方がインターネットにはあった。今でもあるんだろう。TLに流れてくるさまざまな情報を受動的に眺めていた私は、インターネットの人々をまねるようにして「文学オタク」の自覚を深めていく。国語便覧はネタの宝庫だ。眺めているだけで楽しいし、図書館に行けば同じような本好きの友達と文学知識()を語り合う。

 つまり私は、中学の時から鴎外や漱石菊池寛の分厚い全集を片っ端から読んでいてぺらぺらと蘊蓄を喋れる「文学オタク」な自分のことをすごいと思っていた。本を読まない人には見えない世界が見えていると思っていた。電車で芥川を読んでいればお年寄りからは褒められるし、ゲームにはいい顔をしない親も文学なら何も言ってこない。教師からも国語だけ妙に点数が取れる生徒として認識されて、友だちからも「すごーい。よく知ってるね」と言われた。今ならその友だちの言葉にかすかな侮蔑と嘲笑があったとわかる気がする、そんなので自分を保っていた。

 ただ、私にはどうしても読めない小説があった。恋愛小説や性愛小説。BLやTL作品のように初めから「ポルノ」だとわかっているものなら読める。

 けれども、きれいな「純文学」の中に含まれる「恋愛・性愛的な」もっと詳しく言えば「異性愛的な」行為の描写や感情の働きには、ほとんど心が動かなかった。なぜ登場人物が「そう」なるのか、さっぱりわからない。どうして親しい人間同士の間で「それ」が起こるのか、なぜ「それ」が関係において最重要の事項のように語られるのか。なぜ何気ない日常のシーンで「そういう」視線が描かれ、あるいは隠されるのか。私にはこんなに何も起こらないのに。本当のように書かれた「それ」が、なぜ孤独や寂寥と同じように私には共感できないのかわからなくて、私は恋愛小説を嫌悪した。

 今でこそ私は「アセクシュアル」や「アロマンティック」というセクシュアリティで説明することができるようになった。それでもひとつの言葉で全部を説明することはできないから、「レズビアン」「リスセクシュアル」「フィクトセクシュアル」もしかすると「性嫌悪」「ミソジニー」「ミサンドリー」などという概念でも説明するかもしれない。私は、私のことについて、うまくは説明できないが、なんとか説明しようとすることはできる。説明や経験によって証明しなくてもいいことも知っている。

 

 高校のときにはほかに、自然主義と言われているらしい作品をいくつも読んだ。ゾラの翻訳小説は好きだった。写実的でリアルな人生というかんじがした。でも、花袋の『蒲団』はよくわからなかった。露骨と聞いていたけど、どこが露骨なのかわからなかった。露骨ってあけすけで赤裸々とゆうことだと思うのだけれど、あの程度の赤裸々はみんな書いてることだった。当時にしてみれば「公の場で性欲を語った!」みたいな衝撃があったのかもしれないけれど、性が商品化され大量に消費されている資本主義の時代にネットで"過激な"BLや夢小説に親しみながらそこそこバリバリ生きている少女だった私はその状況に慣れつつあったから『蒲団』は物足りなかった。がっかりすらした。多分、もうちょっとポルノっぽい描写を期待していたのかもしれない。

 Twitterでは「『蒲団』の花袋のセクハラおじさんっぷり」は「文豪の面白ヤバエピソード」として流れてきたので、そういうものかと思って乗ろうとした(今にして思えば、何に乗ろうとしていたのだろうと思う)

 できなかった。私は、もう名前も覚えていないが「何十歳も年の離れた師匠の男性に恋心を寄せられる女」を自分と重ねてしまった。端的に言えば『蒲団』はキモかった。そのときはこう思った。私は、男性の性欲を嫌悪しているのだと。なんで男は女を捻じ曲げて書くことばかりするのだろう、身勝手に理想を押し付けて不都合になったら捨てる。思えば谷崎も鴎外も紅葉もそうだった。というふうに。怒ったし、むかついたし、キショいし、気づいてしまった。私がこれまで魂を預けてきた「近代文学」に「私はいない」ことに。私が共感し信頼し仲間だと思っていた奴らは私とは違った。彼らの作品に現れるうじうじした自我は、ある一面では私だったけれど、他の面では何もかも生きる苦しみすら共有されていなかった。私小説はそのことを突きつけてきた。高校生だった私はどうしても、私は「何十歳も年の離れた師匠の男性に恋心を寄せられる女」側なのだと、思い込んでしまった。

 今なら、もう少し詳しく説明できる。日本の自然主義は事実や体験に沿った「あるがまま」を書こうとしたかもしれないけど、表象は必ずしも現実を掬い取らない。「あるがまま」の中に女は入っていなかったこと。現実の女を書くつもりはおそらくなかったのであって、『蒲団』の女は「あるがまま」の中の幻想に過ぎないこと。「幻想の女」が必要だったという事実こそが「あるがまま」なのだということ。なぜ「幻想の女」が必要だったのだろうということ。なぜこの「あるがまま」が「性欲」と捉えられてしまうのか。本当にその欲望は「恋愛感情」や「性欲」だったのか。恋愛や性欲という言葉で覆われてしまっているけれど、もっと別の欲望ではなかったのか。「幻想の女」と「性欲」を作り出す構造について。表象する/される限り「幻想」から逃れられないのではないか。私もどこかで、「幻想の女」を作り出しているのかもしれないこと

 

 どうであれ、とにかく私が一生懸命読んでいた「文学」は私のための物語じゃなかったことに気づいてしまった。

 それでも例外もあった。『たけくらべ』はフェミニズム的な読み方のできる作品だと今でも思っているけど、何かの解説で「たけくらべ論争」について知ってほんとうにげんなりした。なんにもわかってない。女のことについて、どんなに一葉が気を張って用心深く周到に丁寧に練って批判を織り込んで熱意を込めて冷静に鋭く鋭すぎないように言葉を選んで書いていたとしても、議論されるのは美登利が処女か否か初潮を迎えてるか否かってどういうことなんだろう。なんにもわかってないじゃん。ほんとうになんにもわかってない。本当に、この作品について、今までこんなことしか分析されてこなかったのか? と思った。信如とのすれ違いの淡い恋愛が美登利を少女から女性へ成長させた、みたいなのを読むたびに、本当に同じ作品を読んだのだろうか? と頭を捻ってしまうくらい。わかってない。

 

 それから私は本谷有希子山本文緒津村記久子絲山秋子金原ひとみを読んで精神を保つようになる。大学に入るとほとんど小説は読まなくなってしまった。(というか読めないのが増えてしまった。最近は韓国文学がきっかけでちゃんと本の選び方を覚えてまた読むようになった)

 今でも、本屋や図書館で適当に本を手に取れば、ほとんどの場合――それが恋愛小説ではないとしても――恋愛や性愛にぶちあたる。何もかもわからない。わかるような気もする。BLドラマや百合漫画のような、同性愛に近いものを扱った作品に触れてもそうだ。前提として恋愛と性愛があることは、ときに暴力的だと思う。小説創作のワークショップに参加したとき、講師に恋愛の素晴らしさを語られて疲弊した上でさらに自分の体験をもとに恋愛小説を書くというお題が出されたのだけど、(もう一つは、自分の名前をネタに私小説を書けみたいなお題でどちらも最悪だった)、ただでさえあやふやなセクシュアリティアイデンティティと恋愛へのわからなさその他もろもろを小説化するなんて、ましてやほぼ初対面の多数の人間の前で自分の思想が俎上に載せられることに耐えられなくて、それきりその教室には行かなかった。

  自ら苦しみたくない。自傷として読んでしまう自分がいる。だから文学を――文学に限らずだけど――もう昔のように無邪気には読めなくなってしまった。ということです。