ついにはこんなよるに

 はやくもわたしの中では夏が終わった。

 10代の輝きは素晴らしい。と、仕事をしていて感じる。かつてわたしも10代だった。取り憑かれたように本ばかり読んでいた。文章を書くことが使命だと思っていた。大好きな漫画があって、夢小説を書いていた。初めて親友と呼べる存在ができて、交換日記をしていた。ものすごくハマったゲームがあって、同人誌を出していた。テスト勉強も楽しかった。とにかく、何かに夢中になれた。夢中になったら、それ以外見えなかった。見なくても良かった。

 

 それが、今では、なんと難しいことだろうか。夢中になる、好きになる、ということは、今のわたしにとってひどく億劫なことだ。広い原っぱの中や瓦礫の中から、とにかく動いて何かを探す、それが楽しかったのに。今では立ち尽くし、気力もなくぼんやりと眺めるだけだ。原っぱを歩く方法も、瓦礫を動かす方法も、昔よりはわかってはいるはずなのに。

 だから、情熱、と呼ばれるようなものを他人の中に見るとき、羨ましいようなきもちになる。わたしはもう、臆病で情熱のない人になってしまったのだろうか?

 

 そしてわたしはくやしい。やれるだけのことはぜんぶやった。たくさんたくさん練習した。けれども、がんばった半年の努力と時間が、おもうようにならなかった。なんで?どこをどうしたらよかったんだろう? 燃え尽きた今、怒りのようなものが湧き上がる。行き場のない言葉の中で、子どもたちの泣き顔を思い出す。

 

 終わってほしくなかったな。まだ夏が続いて欲しかった。もっといっしょにやりたかった。

 いま涙が出るのは、きっと子どもたちのおかげだ。みんなの輝きが心に火をつけてくれる。子どもたちは、かつてのわたしだ。わたしは、彼らの面倒をみる仕事の中で、自分の中の「子どものわたし」をケアしている。

 うまくできなかった自分。友だちが少なかった自分。おもうような青春が送れなかった自分。自意識過剰で、素直でなかった自分。この仕事はわたしの自分勝手な「やりなおし」だと感じる時がある。

 

 でも結局はちがう人間なのだ。大人は何にもなれない大人でしかないけれど、子どもたちは何かになれる。だから子どもは希望なのだ。

 だから、ありえないくらい悔しい。

 わたしにとっては、わたしの歳の離れた友人たちが、わたしの仲間が、わたしたちが創り上げたものが、いちばんだよ。