ネタバレを見て途中で離脱する日々
ドラマや恋愛リアリティショーを観ていると、私は心臓がドキドキしてくる。そして耐えられなくなり、「作品名 ネタバレ」で検索する。
当然のように展開や結末を把握できると、私はそれで満足してしまい、続きを観ようというモチベーションはとてもとても小さくなってしまう。
だから、1〜2時間を狭い箱の中でじっと座って画面をみて過ごすしかない映画館は、むしろ楽だ。先週はクィアの友だちと『ドライブアウェイ・ドールズ』を観に行った。めちゃくちゃ良い映画だったと思う。
映画を観に来ていたのは私たちを入れても5人しかいなかった。レズビアン映画やクィア映画を観に行くと、必ず何人かおじさんがいるんだけど、あの人たちは何を目的に女同士やクィアの連帯の映画を観ているんだろうか。そもそも、そこに連帯や希望を見出しているのだろうか。もしかすると同じ当事者なのかもしれないが、まあどうでもいい。薄気味悪く感じてしまうことも別に申し訳ないとも思わない。
友だちとは、その後カフェに行った。微妙な時間だったので、私はからあげ定食を、友だちはパフェを食べた。別々のものを食べるのは失礼だろうかとも思ったけど、好きなものを食べるのが一番良いのでそうした。
たしか、この先をどう生きていくか、みたいな話をしたと思う。SNSで目に入るレズビアンたちはみんなキラキラしている。パートナーがいたり、子どももいたりする。リアルにはもちろんそんな人は見たことがなくて、シスジェンダーの異性愛者として、結婚して妻になり、出産を経て母になる、そんな「ふつう」の人たちがほとんどだ。同世代でももう結婚していたり、そうでなくても彼氏と同棲していたりする。
そのレールには乗れない。乗りたくないし、乗れない。
ただの選択肢の問題だとして、なぜこんなにも苦しくなるのだろう。
周りを見てふと思ってしまう。じゃあ、こういう「ふつう」じゃない生き方って、クィアが一人で生きる暮らしの仕方って、どこを見たら、誰を見たらわかるのだろうか、と。
要するにこれはロールモデルの話であり、不可視化・周縁化の話でもある。もっと広くつまらなく言ってしまえば、20代の人生の迷い。
だからこそわたしは、そんな話を、解決するわけでもなく愚痴るわけでもなく、ぽつぽつとゆっくりと語り合えることができる友だちを、大切にしたいと思う。