『星の花が降る頃に』をクィアな視点で「読むこと」

 

『星の花が降る頃に』という教材

最近、なんかモヤモヤするよね〜と話していた教材。かんたんなあらすじ。

 

中学生の"私"には、夏実という小学校からの親友がいた。けれども、クラスが別になると徐々にすれ違うようになってしまう。思い出の銀木犀の花をきっかけに仲直りしようとするが、うまくいかなかったところをサッカー部の戸部君に見られてしまう。弱みを握られた気分になるが、戸部君は冗談を言って"私"を笑わせてくれる。
"私"は気を取り直し、学校の帰りに銀木犀のある公園に寄る。そこで掃除のおばさんと出会い、「銀木犀はどんどん古い葉っぱを落っことして、その代わりに新しい葉っぱを生やしている」ことを知る。

"私"は持っていた銀木犀の花を落とし、前向きな気持ちで木の下から出ていく。

 

中学生の繊細な心の揺れ動きや、友だちとの関係性がほんとうに気持ち悪いくらい上手に描かれている。疎遠になった数々の友だちのことが強制的に思い浮かび、読むだけでウウッとえぐられるものがある。

 

 
どんな読み方がなされてきたのか

一言で言えば、「"私"の心の成長」だろう。

心の成長についての解説記事はたくさんあると思うので割愛するけど、わたしが当時この作品を使ってやったのが「続き物語を書こう」という活動だった。

八木 雄一郎の研究(2016)によると、生徒たちの書いた『星の花の降る頃に』の「続き物語」はいくつかのパターンに分類できたという。

 

「友情」「恋愛」「友情十恋愛」に分類することができ、さらにそれらを交流させていくと、「友情」が減少し「友情十恋愛」の作品が増加するという結果が示された。 この結果から「続き物語」の交流とは,学習者たちに作品の主題への着目を促す契機になりうる活動であるということが指摘できるだろう。 『星の花』は「私」の視点で語られる物語であり、作中における「私」の意識は、「夏実」との関係(およびその回復への願い)に向けられている。 学習者がこの「私」の語りや願いに寄り添おうとすれば, 「続き物語」にお いても「夏実」との関係をなかは必然的に採り上げることになる。 1回目 の「続き物語」において「友情」の作品が18件に及んだのも,そのような動機によるものと考えられる。そしてそれは決して「誤り」とは評価できない。

 

「誤り」とは評価できない、というのは、「正解でもない」ということなのだろう。論文は以下のように続く。


しかし本教材においては, 「銀木犀」の花言葉が「初恋」であることや、作中における「(銀木犀の木が)どんどん古い葉っぱを落っことして、その 代わりに新しい葉っぱを生やす」「袋の口を開けて、(かつて夏実と拾った) 星形の花を土の上にばらばらと落とした」といった表現、さらにタイトル の『星の花(=銀木犀)が降るころに』の意味などを鑑みると、「夏実」のみではなく「戸部君」との新しい関係に着目していくことが、より十全に作品の主題に接近していくことになるはずである。

つまり『星の花』は「友情」のみではなく(ほのかな)「恋愛」がそこに示唆されている物語であり、2回目の「続き物語」において「友情(?)十恋愛(?)」群の作品が増加するのも、そのような作品主題への意識や理解が傾向として深まったことの証左であると考えられるのである。

 

八木 雄一郎,2016年11月19日,「続き物語」の交流がもたらす文学的文章の読みの変容 : 『星の花が降るころに』を素材として,『信大国語教育』(26 39-52)

https://soar-ir.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=18719&file_id=65&file_no=1

 

 

わたしがモヤモヤするのは、この作品を読むときの視点が、非常に異性愛主義的な価値観に偏っていると感じるからだ。

 

 

 

異性愛主義の中でラベリングされる関係性
  • "私"と夏実
  • "私"と戸部君

 

この2つの関係性は、いともたやすく名付けられてしまう。

 

  • "私"と夏実→友情
  • "私"と戸部君→恋愛

 

というふうに。

さらにそこに「成長」が加わって

 

  • "私"と夏実→友情(古い葉っぱ、過去、捨てる関係)
  • "私"と戸部君→恋愛(新しい葉っぱ、未来、前向きな関係)

となる。

 

でももし、戸部君も女子キャラクターであったなら?

"私"と戸部君の関係は女同士の新しい「友情」と読み替えられ、「恋愛」のラベルは貼られなかっただろう。

もし、"私"が女性ジェンダーでないとすれば?

なぜこの物語は、"私"が主人公だったのだろう? 

 

"私"が女性であるという認識があるからこそ、同じ女である夏実との関係は「過去の友情」として処理され、異性であるというだけで戸部君との関係は「恋愛」として読み取られる。

「同性との友情」「異性との恋愛」

人生って2択しかないの???

そんなわけないよね。

 

 

 

成長って何?

上記のような異性愛主義的な視点で「読むこと」は、もしかすると生徒にこんなメッセージを与えているのではないかと思う。

 

①女同士の「友情」は続かない

②異性との「恋愛」に目覚めよ

③「同性との友情」は捨て「異性との恋愛」に目覚めることが「成長」だ

 

つまりこの物語の「成長」は強制的異性愛主義に子どもを取り込むものであると思う。

無意識のうちに、こうした考えは内面化されていく。『星の花が降る頃に』で読まれてる「(女の子の)成長」って、正直『たけくらべ』の頃からあんまり変わってないんじゃねーのと思ってしまう。進歩なさすぎるでしょ…

女同士の特別な関係は、異性との恋愛→結婚までのモラトリアムでしかない。

 

女の子が恋愛以外のテーマで主人公として活躍する小説は、(増えているとはいえ)ただでさえまだ見つけにくい。女の子が主人公の小説をわざわざ教科書に載せるなら、こんな暗い話じゃなくてもっと女の子たちのエンパワメントになるような話を載せればいいのにな、と思う。

だからこそ、「友情+恋愛」でどっちもありの「続き物語」を書く生徒がいるんだと思う。

 

 

中学生だったわたしへ

当時のわたしはといえば、この異性愛主義的な戸部君との「恋愛」読みにかなりザクッと心が傷ついていた。(ということは今でもそういう生徒はいるはず)

 当時のわたしは1番仲の良い親友だと思っていた女の子に対して過ぎた友情なのか恋愛なのかわからない感情を抱き、結果、リアルのレズはないわ〜的なシカトとともに疎遠になった。デミロマやアセクやレズビアンという概念を知った今でも、友愛と恋愛の区別はつかないし恋愛はよくわからない。

ただ、性別二元論的で異性愛主義な社会というのに対して、そういう難しい言葉は知らないながらも、この『星の花が降る頃に』を授業で読みながらなんとなく疎外感を覚えていた。

だって、

 

去年の秋、夏実と二人で木の真下に立ち、花が散るのを長いこと見上げていた。気がつくと、地面が白い星形でいっぱいになっていた。これじゃ踏めない、これじゃもう動けない、と夏実は幹に体を寄せ、二人で木に閉じ込められた、そう言って笑った。

 

夏実と私はここが大好きで、二人だけの秘密基地と決めていた。ここにいれば大丈夫、どんなことからも木が守ってくれる。そう信じていられた。

 

ここでいつかまた夏実と花を拾える日が来るかもしれない。それとも違うだれかと拾うかもしれない。あるいはそんなことはもうしないかもしれない。
どちらだっていい。大丈夫、きっとなんとかやっていける。

 

もうこんなのは女の強い感情じゃん!?

どう考えても、戸部より夏実でしょ…涙

仲直りうまくいってもいかなくてもこれは百合小説ではないですか!?

ボール磨きながら説教をしてくるタイプ、モラハラの匂いを感じる…騙されるなよ隣にいることを許されてるからと言って両思いとは限らない。

 

なんというか、夏実とすれ違って孤独を感じてる"私"が、親友だった女と喋ることもなくなってどーしてこうなったんだろ…てメチャクチャになっていた自分と重なる。話しかけようとして顔背けられるのわかる〜ってなる。

 

だからわたしは、昔のわたしに言ってあげたい。今この教材を読んでモヤモヤして検索かけてこの記事をよんでくれてる中学生の子とかにも言いたい。

「同性との友情」「異性との恋愛」以外の人間関係もちゃんとあるよ。友情捨てなくても、友情に敗れても、恋愛しなくても、それなりに成長できるよ。てゆうか、そんなパッキリ関係性も感情も割り切れないし、グラデーションじゃなくてぐちゃぐちゃのマーブルだし、わかんないままでもなんとかやっていけてるよ。ずっと銀木犀の下にいてもいい。そこから出なくてもいい。戦わなくてもいい。

 

 

なにを教えているのか?

こうした強制的異性愛からのがれるために、何度も何度もカミングアウトしたり説明したりしなければならない。してもわかってもらえないし、職を追われたり命の危険に晒されたりするときもある。

そもそも明確な答えはないのだ。ぐちゃぐちゃのマーブルなのだから。ノンバイナリーやレズビアンという言葉は誰かにとってのアイデンティティではあるけれどすべてではない。わたしの言葉ではなくこの社会で制度化された言葉であって、わたしのすべてを語らない。

 

でももちろん、わたしが「同性との恋愛かも」「恋愛や友情以外の何かかも」って読んでるように、「同性との友情」「異性との恋愛」っていう読み方をして楽しむ人もいる。

この教材を扱う大人はせめて、あくまで読み方の一つとして、「過去の同性との友情」「未来の異性との恋愛」=「成長」だけに決めつけないでほしい。そういう強制的異性愛の方程式は綺麗に見えるけど、余りになってる生徒や振り落とされそうになってる生徒がいると思うから。

間違っても、「これ読んだ女子はみんな戸部君に惚れてるだろ」とか「男と女はくっつくものだから」とか「恋をして大人になった」とか言わないでほしい(実体験)

 

中立だと思ってるものはぜんぜん中立じゃない特権であるときもある。わたしもその特権を得ていて、自分をずるいと感じる時がある。

 

それでも、どんなセクシュアリティジェンダーにも関係なく「恋は絶対経験するもの」「友情vs恋愛」という押し付けって嫌じゃない? 人それぞれじゃん。

こういうロマンティックの上澄みだけ飲ませるようなことはせずに、学校でも性的同意やDVや避妊やリプロダクティブライツについてもちゃんと取り扱うべきだよ〜…

とはいえ、わたしもそれらをきちんと教えられるかってなったら難しいし、クィアリーディングがしたくても教えないといけないことは山ほどあるし、ここに書いてるのは自戒でもある。

マーブルのままでもいい。銀木犀の木の下に籠っててもいい。むしろこの作品はマーブルよりの話であるし、そんな読み方ができたらいいのにな。

 

 

クィアな教育って何?

LGBT教育やセクシュアリティ教育、ジェンダー教育というのは、ただその時間だけ性について話を聞いて終わり、というものでは(当然ながら)ない。

むしろ日常生活や授業の中での大人の発言や振る舞いといった潜在的なカリキュラムこそ、見えない抑圧となって子どもたちのジェンダー観やセクシュアリティの受容に影響してくる。

もちろん特権にのっかったセクシズムをする先生ばかりではないけれど、学校や職員室はかなり保守的で安心できない空間だ、というのがわたしの印象だ。

でも少なくとも今は、制服が男子用・女子用ではなくAタイプ・Bタイプだったりズボンもスカートもどちらでも選べたりする。ジェンダーについて不適切な発言をした先生を校長先生が注意していたり、あいうえお順の出席番号になっていたりする。確実に、私が生徒だったときよりはよくなっている(と信じたい)

 

だからこそ、日頃の教科の授業でも、もっとクィアな学び方ができるんじゃないの?とも思う。メロスなり山月記なりとくに国語は言語でそれをしていくべき教科だと思うんだけど…あと英語や数学の教科書の案内キャラが男女で対になってるのもやめてほしい。ノンバイナリーやトランスジェンダーのキャラも出してほしいし、かっこいい女の子や男らしくない男の子も出してほしい。