LGBTという何か 自分らしさに中指を立てる トランス差別に反対する

 

 こんなのどうですか?と差し出された書類のタイトルが『多様性を知る〜LGBTについて』だったのどうにかしてほしいと思わない?

 

 「LGBTは社会に(虫食い)割!」と書いてあるワークシートを見つめて、私は気が遠くなる。私は「LGBT」じゃない。何回もすでに誰かが言ってることだろうけど。「LGBTの人」なんていう生き物はどこにもいないだろう。

 LGBTの話をいきなりするとみんなが引くかもしれないからまずは男らしさ女らしさのジェンダーの話からしましょうか、と上司が言う。何か喉につっかえたような気持ちになりながら、私は何も言うことができない。うまく言葉にできなくて、そうですね、と言ってしまう。

 男らしさ女らしさじゃなくて「自分らしさ」なんだね、と教材動画の中で子役が喋っている。自分らしさ? 「LGBT」は「自分らしく」生きていることを求められる。「自分らしく」「輝く」何のために?正直、意味がわからない。意味がわからないまま教えないといけない。私はそんなこと教えるつもりはない。

 LGBTは個性じゃない。輝くもなにも、普通に生活できればそれでいい。レズビアンであること、ゲイであること、バイセクシュアルであること、トランスジェンダーであること、それぞれは単なる名前のラベルではなく、その人のアイデンティティであり、LGBTQ+というのはコミュニティのことであり、大きな傘の中の連帯のことではなかったか。主体性や歴史性を失ったLGBTという言葉の中の空虚になんとなく当てはまられて、的外れな議論で注意をそらされるのが本当に苦痛でしょうがない。

 

 そもそも多様性を知りたいなら、一つの集団の中にも十分な多様性はあるし、LGBTに絞らなくたって人種や宗教、家族、職業、習慣、健康……みたいになんだってあるのに、他のものとは絡めずにLGBT LGBTと呪文のように言っているのが意味不明。そんなに唱えてもあなたの多様性は増えません。

 

 もっとめんどうなのが「おじさん」たちだ。会社の中でもかなりの人数を占める彼らはもちろん全員ではないが一部にはこういう意地の悪いことを言ってしまう人がいる。「LGBTはいいよな、主張ばっかりして」という主張や「LGBTの数が増えたのはなぜか」「インターネットが発達して少数派でも意見を言いやすくなったからだ」「いい時代になったのかどうなのか、デカい声で騒ぐ奴が勝つんだよな」という嫌味、「LGBTがわからん、ついていけない、と言うとこっちが差別者扱いされる!やりにくい!」というちんぷんかんぷんな怒り。お門違いだ!と大声で怒鳴ってデスクをひっくり返してやりたい。「LGBT」が出しゃばって「自分たちを否定してくる」とでも言いたげなこのよくあるやりとりにはうんざりする。社会の構造の話をしているのであって、そして今生死をかけて生き延びようとしている人たちのために何ができるかを話しているのであって、お前の話はだれもしていない。見ようとしない、知ろうとしないだけで、私は(私たちは)ずっとここにいる。耳を傾けるってそんなにたいへんなこと? 

 「女の服を着てもよいが周囲に対する説明責任がある(カミングアウトの強制、そしてなぜ当事者ばかりに説明させようとするの?)」

「特別扱いはできない、本当に困っているなら助けてやる(さも自分にジャッジの権利があるかのような勘違い)」

「男になりたいなら男らしくしろ、でももし戻りたくなったらどうするのか(バイナリな抑圧、流動性の否定)」

 そんなのはもういらない。実際に否定して差別しているのはどちら側なのか。「俺たちの今まで」を振り翳し「特権性」を顧みることなく被害者ぶるのは本当に迷惑だし、差別心の表れだろう。めんどうくさいし、卑怯だ。巧みに論点をずらして、実現されれば誰にとっても良いことを論じないのはどうして? と聞きたいけれど、それにもまた真面目に取り合わないのだろうか。それはトランス差別だ、って言っていい?

 私は闘い方が知りたい。