おしまいはどこか

うまくいかない日というのがあって、今日がそれだった。

落ち込んではいるけれど、「まぁいいか」と思って、落ち込むことすら面倒くさがっている自分がいる。

 

保険屋のおばちゃんに、「この保険をかけてると結婚出産でお祝い金がでるのよ」と言われた。私は正直に、今の段階で結婚も出産も人生の計画に入っていないことを伝えるのに、「そういう人ほどいきなり結婚したりするんだから」と宥められる。

 

本当にそうだったら、どんなに楽だろうと思う。

 

まず好きになる恋愛対象がわからなくて、恋愛感情もよくわからなくて、なんで結婚するときに恋愛感情がいるのかもよくわからないのに。自分の性別も苦しくて、外に出たくない時もある。着る服に悩むときもある。想像を飛ばしてみて、パートナーに親を紹介するときのことを考えると鬱々とする。子どもを虐待する自分が容易に思い浮かぶ。

 

わたしもふつうになりたいよー。ふつうじゃなくてもいいから、安心したい。でもふつうってなに?

 

友だちと仲良くできる人や、周りの恋愛や結婚をしている人や、夫婦で子どもを育てている人たちをみると、わたしはモンスターに囲まれているような気持ちになるけれど、たぶん、わたしの方がモンスターなんだろう。でも、わたしは、なんとかふつうに擬態しているモンスターなので、保険屋のおばちゃんみたいに「いつかきっとできるよ」と励まされる。ふつうに見えてるからふつうになれるよ。に聞こえる。

できる気がしないよー。なれないよー。

 

だって結構がんばったよ。物心ついてからずっと、生きるのが面倒くさくて、さみしいのに、人といるのは疲れる、という状態が続いている。それでも友だちと出かけてみたり、ビアンバーに行ってみたり、職場の先輩と飲んでみたり、マチアプの男と遊んでみたりした。やらない後悔よりもやっちまった後悔だと思っているからやってはみるもののぜんぶ虚しい。後悔すらない。

この会話意味あるのかな?この話おもしろいのかな?これって仲良くしてこの後どうなるの?とか、そう思い始めたらすごくどうでもよくなって、ぜんぶ投げ出して1人になりたくなる。

 

そのとき楽しいかと聞かれたらべつに楽しくない気もするし、楽しいような気もする。

 

しかも、どんな人と喋っていても、消費されている感覚が消えない。時間、体力、お金、そたエネルギーが削り取られて、損をしたような気分になる。

犬と妹といるときはそう思わないけど。

反対に、自分も、人を選り分けているので、最低だなーとシンプルに思う。

 

そもそも小学生の頃から会話の仕方がわからなくて、小説やドラマのセオリーや文脈をコピーして話しているような、最適解を探すゲームみたいな感覚なので、女子の中でも男子の中でも大人の中でも子どもの中でも話が噛み合わないときが多くて、それも嫌だ。

 

だから、深い友だちはいないし、もしパートナーができたらと考えても、自分のルーティンを変えたり、疲れずにいられたり、他人に私的にリソースを割く甲斐性が、私にはないんではないだろうか。

誰かと会う約束も、今は、とてもしんどく、重く感じる。自分がすごく弱くて嫌なやつに思える。ただぬくもりがほしいだけだ。

 

ぬくもりとかだるさとか感じなくて、感情がなかったら楽だったのにな。こうやって麻痺して、何も感じなくなっていくのかな。

 

 

 

 

山か川か森に行きたい。早く雲や風や石になりたい。